ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

悪を倒すものは悪なのか 〜舞台「ねじまき鳥クロニクル」〜

 

公演ポスター センスいい

 11/20〜24の5日間、東京に行っていました。
 目的は、村上春樹の小説『ねじまき鳥クロニクル』を原作にした舞台を観に。ついでにいろいろ観てきましたが、舞台について思ったことを書きたいと思います。
 
 舞台としては、ものすごくものすごく良かったです。
 演技、ダンス、音楽、構成、舞台美術、シナリオ、すごく細かいところまで作り込まれていて、観終わってどっと疲れたくらい。
 音楽は大友良英氏のバンドによる生演奏。客席脇での演奏で、アドリブも多かったらしく、一度限りの舞台という感覚でした。
 もちろん嫌な疲れではなくて、うわ…何を観たんだろうおれは…みたいな呆然とした感じで、余韻の中から抜け出せなくなっていました。
 かといって超クールでドライかといったら全然違って、むしろ遊び心もあって、エンタメ性は高いです。
 そういうところも村上作品の世界観を形にしていて、本当にすごいと思いました。
 次から次へと出てくる奇妙な(手品的な)仕掛けに翻弄されながら、幕間を挟んで3時間半ほどがずっと感動の連続。夢のような世界に浸っていました。
 
 さて、僕は舞台自体にそんなに詳しくはなく、品評?みたいなことはできないので、今回書きたいのは作品の内容について。
 原作は学生の時に読んでいて、でも筋書きはほとんど忘れていたので、そういえばそうだったな…と思いながら観ていました。あらすじをざっと書くと次のような感じ。
 
 主人公は岡田トオルという30歳の男。妻のクミコとの間に子はなく、猫を一匹飼っていたのだが、ある日その猫が消えてしまう。
 トオルは猫を探すうちに入り込んだ空き家の庭で、笠原メイというちょっと風変わりな女子高生と出会う(その空き家には枯れた井戸があり、これが物語の重要なメタファーになっている)。
 そしてクミコの兄・綿谷ノボル(トオルはすごく苦手にしていた)の紹介で、加納マルタという予知能力を持った姉と、痛みを感じないクレタという娼婦の妹という双子の姉妹の協力を受けることになる。
 そこで姉マルタは、猫の失踪は始まりに過ぎず、これからさらに災難が起こるだろうと予言する(マルタの言い分では、妹クレタトオルによって「夢の中で汚された」という)。
 次に、妻のクミコが失踪する。その背後には不倫(複数の男との)が仄めかされていた。
 トオルは導かれるように、空き家の井戸の底に下り、赤坂ナツメグ・シナモン母子(と「顔のない男」)が経営する不思議なホテルでクミコ(なるもの)を探すことになる。それは体力的にも精神的にもつらいもので、終わりのない徒労を重ねるような、気の遠くなるような苦痛を感じさせるものだった。
 実は、物語の大きな象徴はトオルの義兄・綿谷ノボルという存在だ。
 彼はサディスティックの極み、冷徹で残酷で、暴力を一方的に与える、いわば悪の象徴として描かれる(本当は見えないところにその隙があるのだけど、一応は置いておきます)。
 物語中では、加納クレタが綿谷ノボルに暴力的に犯される場面がある。
 そして岡田トオルは最後にはホテルの中で…。
 
 悲劇的な話のようですが、一応のカタルシスはあります。
 この小説を語るときは必ずといっていいほど「性」と「暴力」が語られ、そして「悪とは何か」という話になりますが、確かにそのとおりだと思います。
 その「悪」の象徴として、性と暴力、そして「痛み」を撒き散らす綿谷ノボルがある。これは同情の仕様がない完全なる悪としてもいいと思います(一応は)。
 合間にトオル・クミコ夫妻の共通の恩師である本田老人の遺品を届けに、間宮という氏の陸軍時代の元同僚がやって来るのですが、彼が語る日中戦争時のノモンハン事件中の「皮剥ぎ」のシーンはあまりにも残酷で有名です。そして劇中では、その遺品は古い木製の野球バットで、岡田トオルの「悪」の部分である彼の分身がそれを奪って消える場面がありました(書いていませんでしたが、劇では岡田トオル役は二人いて、表の普通の人間を渡辺大知、裏の悪の部分を成河がそれぞれ演じています)。
 こうやって、とにかく「性」「暴力」そして「悪」というものが後半ずっと描かれるので、かなり精神的に削られます。これも観終わって疲れた原因の一つです。
 しかし、村上がこうしてまで描きたかったものはなんだったのか?
 あまり多くを語らない作家ですが、この作品について彼は、人間の中には「善」と「悪」というわかりやすく二分割することのできないもっと複雑なものがあるはずだ、そこを書きたかったというようなことを言っています。
 脱線のようになりますが、僕の中では、なぜかこの小説とオウム真理教の事件が繋がっていました。
 小説が世に出たのが1994〜95年ですが、書き始めたのは91年、作者がプリンストンの大学で教えていたときらしいです。
 なので、出版されたときにでさえ一部表面化していた程度だったと思うので、作家が一連のオウム事件を背景にしていたとは考えられないのですが、なぜか僕の中では繋がるんです。ものすごく買い被ったいい方をすると「時代を深く理解していた」(先が見えていた、読めていたというわけではなく)ともいえるのではないでしょうか。
 
 さて、舞台に話を戻すと、終盤にトオル(演・成河=悪の部分)が綿谷ノボル(とされるもの)を、本田老人の遺品であるバットで殴り殺す場面があります。もちろん、井戸の底の先の世界でのことなので、リアルに殺すわけではありませんが。
 これが物語のカタルシスへと繋がるのですが、この演技を目の当たりにしたことで思ったのがタイトルにしたこと、つまり「悪を倒すのものは悪なのか」という問いでした。長くなってしまいすみません。
 文字ではなく、演技で観たことで初めて思ったことでした(初読のときは若くてそんな頭はなかっただけですが)。
 絵としては、トオルが躊躇いながらも狂気的にバットを振い(バックにはめちゃくちゃなフリージャズ)、血塗られた綿谷ノボルが背景を走馬灯的に流れてゆく描き方ですが、こういうビジュアルのイメージがあったことが大きかったなと思います。
 
 今戦争の話題を出すのはセンシティブにならざるを得ませんが(いつでもそうだけど)、それを持ち出すまでもなく、悪を倒すためには自身も悪の側に立つことが、もしかしたら必須なのかもしれない。そんなことを思ったのです。
 自分が善人で、敵が悪人である。
 善vs.悪というわかりやすい二項対立の罠がある以上、何も解決はないのではないか、ということは最近よく言われていることですが、もう少し考えてみたいと思ったのです。
 そもそも、そう言ってしまうことがむしろ偽善的、優等生的なことだとも思えるから。まるでそう言っている自分は善の側に立っていると思っているのではないか。というか、実際はどちらにも立っていないのですが、こういう態度は果たして本当に正しいのだろうか?
 というか、僕が最近までその優等生的な側だったのです。
 だからこそ考えたのは、自分がどうしても滅したいと思う相手(敵、悪なるもの)があるとしたら……それを倒さなければ、自分と自分が守りたい人・ものの尊厳が失われるという事態に直面したとき、果たして人はどういった態度・行動をとるだろう?
 それが法や倫理を破るものであったとしても、なかったとしても。
 岡田トオルは自分ではないか。
 そういうことを思いました。
 
 人は、止むに止まれず、どのような振る舞いもするものだということが、年齢を重ねると少しずつわかってくるようになるな、と思っています。
 そして、そもそも「善悪」というものは相対的な尺度で、何かと何か(自分と相手)という2つ以上のものがないと成り立たない概念です。
 つまり、自分が善だとしたら相手は相対的に悪になる(逆も然り)。原理的にそうなるだけの話で、もしかしたらこういう尺度を使うこと自体がおかしなことなのかもしれない。
 だから、善悪二元論を離れてみよ、というふうになるのでしょうが、基本的にはそのとおりだと思うものの、これも僕の中ではなんだかしっくりこないのです。やっぱりどこか偽善的で、そして傍観的だと思うし、これは今主張したいことではないにしても、少し引っ掛かるようになりました。「離れる」の離れ様なのかな。以下、便宜的に善と悪という語を使います。
 悪(とされるもの、と自分が思っているもの)を倒そうと思ったとき、倒そうという思いが起こったとき、人は岡田トオルになるしかないのだろうか。つまり、暴力を暴力でもって制するしかないのか。悪を倒すためには自分自身も悪になるしかない……。
 綿谷ノボルは同情仕様のない「悪」としてあります。が、ほんの少しの「隙」のようなものが仄かに暗示されていました。単行本で3巻分ある長い物語を3時間半の舞台に収めるとなると、慎重に取捨選択しなければならず、構成者は相当悩んだと思うのですが、この仄かな「隙」を演劇ではカットしなかった。ここはもしかしたら重要な点なのではないかと思います。
 
 正直、この記事で僕が書きたかったことは上手く書けていないと思うし、それは全くもって筆力のなさではあるのですが、そもそもを分けずに考えてみたい(悪というものも善というものも、その名前を消してまっさらなものとして考えたい)として文章にすることの難しさはあり、そこを書けていないのがもどかしいです。本当に力とセンスのある人であれば、絶妙なところで上手く書けるのですが。
 だから同じようなことを何度も書いたり、矛盾のようなことを書いたりですみません。
 かといって答えを出さないという態度も違って、でも出してしまうと自分もまた傍観者になる気がしてしまいます。
 ただ、今の時点で自分が思っていることはあるので、それを書いて終えようかと思います。
 比較する相手を持たない絶対的な「善」と「悪」はあると思う。
 つまり、「存在」は絶対的な善で、絶対的な悪は存在しない。