ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

東北旅ショートエッセイ「4日目:青森に今度は西行と鴨長明が現れた」

 

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 ぼくがちょうど五所川原から青森駅に着いて、ホテルにチェックインしようと向かっているとき、夕食を済まそうと思い立ってガイドブックを広げると、よさそうなお店が近くにあることがわかった。「マロン」という喫茶店で、名物はジャマイカンカレーらしい。特に考えもせずに、すぐに入ってみることにした。

 入ると、店の雰囲気がいい。レトロで風情がある。早速ジャマイカンカレーを頼む。美味しい。しつこくなくて食べやすい。だが、今その店と味のことを書こうというつもりでもないので、これ以上詳しくは書かない。まあ、とにかく美味しかった。

 それで、会計を済まして狭い階段を降りると(マロンは2階にある)、壁に貼ってあった大きなポスターが目についた。A1くらいの大きさの縦のポスターで、真ん中に明朝体で「西行」という文字がピンク色で、「鴨長明」という文字が紫色で書いてある。ぼくはその西行の文字が気になって、詳しく見てみた。すると、青森県立美術館のイベントであることがわかった。青森県立美術館? 明日行くところではないか。ポスターをさらに詳しく読んでも、そのイベントがなにかはよくわからないが、とにかく明日青森県立美術館に行くのならこのイベントも一緒に見よう。行くしかない。直感的にそう決めたぼくは、イベントの具体的なイメージがないまま、深く考えずに楽しみにすることにした。

 

 そして今日、予定どおり美術館を訪れ、それを楽しんでから、これを書いている。

 素晴らしかった。

 いいようのない、安楽で上質な時間を堪能することができた。たまたま見かけたポスターで簡単に行くことを決めただけだったのだが、いい出会いとはそうして訪れるものだということがわかった。

 その内容というのは、ひとことでいえば朗読劇だ。鴨長明の有名な「方丈記」の現代語訳と、西行の和歌が交互に交わされる形式で、バックにはジャズのスタンダードが低く流れている。コルトレーンがオープニングにかかり、エンディングにも題名は忘れたが、有名なジャズヴォーカルがかかっていた。

 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住みかと、またかくのごとし……

 この原文を読む人たちが舞台左手にいて、バックスクリーンに現代語訳が映される。写真も添えられる。まとまった量を読んだら、照明がスイッチされ、今度は舞台右手の人たちが西行の歌を原文で読む。こちらは現代語訳はなし。バックスクリーンにはその原文と桜の写真が映される。それが交互に繰り返されるだけのシンプルな演出で、他はなんの味付けもない。暗闇にスポットライトが当たった読み手がただ読むだけだ。この演出が本当に気持ちよかった。

 冒頭だけ知っている「方丈記」だが、今回通して全文を聞けた。現代語でその意味も知ることができた。ひとことでいうなら、諸行無常だろう。世の中の事象は常に移り変わってゆく。永久不変のものなどない。どれだけ豪奢な邸宅を建てようと、どれだけの財を蓄えようと、またどれだけの権威をほしいままにしようと、栄枯盛衰、春はやがて去ってしまう。そのことを深く深く理解した鴨長明が、平安末期の世界を例に書いたエッセイが方丈記なのだということがよくわかった。

 長明が方丈記を執筆したのはすでに鎌倉時代に入ったころで、自信58歳の時期だ。それ以前の平安末期には、いろいろなことがあった。平家が栄華を誇り、保元・平治の乱、安元の大火で都は焼け落ち、巨大な竜巻が起き、また元歴の大地震が都を壊滅的な状態にして、そして平家は滅亡した。多くの人が死に、都はかつての栄華の影を残さなくなった。それを長明はすべて見聞きしているのだ。そこに諸行無常の味を痛いほど味わったのだろう。それを後世の人たちに教え諭したかったのだ。

 対して西行。彼は長明の37歳年上になるり、平家滅亡の5年後に亡くなっている。ぼくはこの機会にきちんと西行の歌を聞いた気がした。知っている歌も何首かあるが、その本質的なところはほとんど理解してなかったといっていいだろう。何首か書くとこんな感じだ。

  • 世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり
    (出家して世の中を捨てたようでいて捨てられていないような気がする。なお心は都にある)
  • 心から心にもの思わせて 身を苦しむる我が身なりけり
    (自分の考えで自分の心を惑わせては、苦しい思いをしている我であることよ)
  • 吉野山去年(こぞ)の枝折(しお)りの道変えて まだ見ぬ方の花を訪ねむ
    吉野山で、去年枝を折々分け入った道を今年は変えて、まだ会ったことのない桜に会いに行こう)

 西行といったら桜を愛したことで有名で、ぼくもそのイメージでいたのだが、こういった歌を聞いて思ったのは、「なんという生臭坊主なんだ」ということだ。他の歌を書くべきだろうが、今でも覚えているのはこの3つくらいなのでお許しいただきたいが、ぼくはほぼすべての歌に共通する、西行の俗人としての煩悩を感じずにはいられなかった。

 かつて佐藤義清として日本一の武士(もののふ)の名をほしいままにしていた西行は、我が子を蹴飛ばして出家した後も、その己の中にいつまでも残る俗物としての自分というものにこれほど悩んでいたのだ。仏の教えに憧れながらも、そのとおりにいかない自分の卑俗さ。それを正直に、オレはこんなにもダメ人間なんだとさらけ出している。その姿がありありと浮かんで、ぼくの西行のイメージが変わってしまった。

 方や悟りきったような鴨長明。方や人間らしい西行。この2人の言葉が交互に交わされることで、迷いの中にいる西行を長明が教え諭しているような気がした。

 長くなったのでこのへんでやめるが(例によって、後できちんとまとめる予定)、ぼくはこのイベントに行ってよかったと思っている。旅の中でいい出会いがあってよかった。

 

 

 追記だが、前回に引き続き、今回も文学に関することを書いたのには理由がある気がする。それは、青森には文学の匂いが満ちているということだ。太宰治寺山修司を生んだという過去の事実もそうなのだが、ぼくが今青森の空気を感じて思ったことでもある。青森の人は電車の中でも本を読むのだ。これまで、金沢、新潟、山形、秋田と巡ってきて青森に来たのだが、それはほとんど電車の移動だった。しかしその中には本を読んでいる人など1人もいなかった。ぼくの見た限りでは、たった1人もである。ぼくだけが読んでいたのだが、なんとなく自分が浮いている気がしていた。しかし青森は違う。老若男女を問わず、ちょっと辺りを見渡せば、本を読んでいる人はすぐに見つかる。明らかにこういった意味での空気は違うと感じている。青森には文学がある。

 余談だが、そういえばグリーンランドもそうらしい(人口当たりの作家の数が世界一らしい)ということも思い出した。どちらも寒いだけでなく、方や青い森、方や緑の大地、となっているのも面白い。