ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

裏は、幸せ。

 
 街角に立ち止まり 風を見送った時 季節がわかったよ
  ——荒井由実「生まれた街で」

 
 
 
 酒井順子『裏が、幸せ。』(小学館文庫)
 珠洲の本屋(いろは書店ではない)で、表紙を前面に出すかたちで堂々と陳列されていたので目についた本。
 タイトルからも表紙からもわかるとおり、酒井順子さんが裏日本についての書いたエッセイ集です。
 暗く湿った印象のある(印象というかそのとおりだけど)裏日本。
 その「裏」であるがゆえの価値について、酒井さんがそのよさを書いた本です。
 谷崎潤一郎は有名な『陰翳礼讃』の中で、薄暗い闇の中で食べる羊羹の美しさについて書きました。
 帯に<酒井版『陰翳礼讃』>とあるとおり、酒井さんは、裏日本に似たような美意識を見たのです。
 即物的に似ているといえば、北陸の古い家屋の奥まったところにある仏壇が、僅かな光を集めて微かに輝いている場面がそれでしょう。
 または、漆のつやが、深い黒の中できらりとハイコントラストで光る一瞬。
 もしくは、『雪国』の主人公島村の左手の指が覚えていたという女の感覚。
 あるいは、泉鏡花が逢魔が時に、ふと出会う異世界の妖しさ。……
 そんなものたちは実に裏日本的ではないかと。
 
 ぼくは日々、漠然とそのよさ、いや、いいとか悪いとか以前の日常感覚として、その裏日本的なものを吸い込みながら生活しています。
 小学校、中学校、高校、大学と、ずっと日本海の見える学校で学んでいました(今の職場も前の職場も)。
 そのころは、なんともなしにただ生きていただけだったけど、東京に出たり、「表日本」の人々と接したりする中で、ようやく30歳を過ぎたころから、ああ、なんかいいかもなあ、と思うようになったのでした。なんかこれって、すごく贅沢なんじゃないかと。
 別に表日本とか他と比べていいという相対的な話じゃなく、ただ漠然とした、いいなあ、といいう感覚です。
 この本のはしがきにもこんなふうに書いてあります。山陰本線に乗って見える絶景の数々が、東京近郊であれば洒落たカフェのひとつでもできそうなものなのに、ただそこに美しくあるだけということに衝撃を受けたと。または、飛行機で能登空港に降りてゆくときの、「森の中にそっと降り立つ渡り鳥のような気持ち」。
 そうそう、そうだよ、とぼくは思うのです(解説で、福井県在住の宮下奈都さんも書いているように)。
 ぼくなんかだと、なんとなくただ、いいよね、程度に思っていたことが、この本には非常に的確に論理的にわかりやすく書かれていて、酒井さんは本当に頭のいい人なんだなあと思いました。もしかしたら、酒井さんが「表」の人間だからかもしれません。
 なんでもそうですが、ものの価値というのは、再帰したとき、ふと立ち返って見たときによさがわかるものです。
 ぼくも別に東京にいたからというわけではないけれど、ふるさとの「裏」であるがゆえの美しさというものが、だんだんとわかるようになってきた気がします。
 都会にいればお金を出さないと手に入れられないような贅沢が、ここではタダで享受できる。そんなことをいってしまうと大げさで地元自慢みたいですが、それを「贅沢」だと思える感覚が大人の感覚なような気もします。成熟といおうか。
 
 この本の意義は別のところにもあります(というか主題か)。
 それは、イケイケドンドン、明るい方へ、右肩上がりの価値観では立ちゆかなくなっている今の時代について。
 このままではどうも具合が悪いと、今の人たちなら思っているはずです。この本では、その明るさ、発展、進歩史観のような典型的幸福感を「表日本」的とした上で、なにもないけれどひっそりとそのよさを自分たちだけで享受しながら暮らしている「裏日本」的な人々に、これからの時代を生きるひとつの指標を見出したいのだということが書いていある。なにも明るいだけが幸福ではないと。
 もちろん、人の欲望として、その明るさのようなものを求めることは変わらないと思うし、変える必要もないと思います。ただ、個人的に思うのは、「裏」は「裏」であるがゆえにいいのであって、「表」のようになったところで仕方がないのだということです(このことは本の中にも書いてある)。新潟出身の田中角栄は、東京と新潟を隔てている山を全部取っ払い、その土で佐渡と新潟を陸続きにするなどと豪語しましたが、それには流石に違和感を持つのです。似たようなことは実現していて、それで助かる(助かった)人たちが大勢いることは事実ですが。
 でもぼくなんかだと、え〜、別にこのままでいいし、などと思うのです。
 足るを知る者は富む。
 現状で満足するとかそういうレベルの話ではなく、今ここにあることをよしとするような大人の価値観があれば、それがどこであろうと、満足して暮らせるはずだと思います。
 ということを、別に自慢するわけではないけれど、裏日本人らしくひっそりと自分だけにとどめるのではなく、ちょっとブログで書いてみたと思い、書きました。