ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

明日のこと、2011年のこと

 
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 急に明日映画を観に金沢に行こうと思いたって、考えたこと。
 一応少し説明すると、ぼくの住んでいる珠洲から金沢までは、車で2時間半かかる。日帰りはできるし、有料道路は「のと里山海道」と名前を変えて無料になって行きやすくなったけど、距離が近くなったわけではない。行くとなると、少し考えてしまう。
 こういうときに、自分の優柔不断さというか、ケチくささを思う。映画を観にいくために一日使ってもいいのだろうかと、考えてしまうのだ。駐車料金もかかるし、人混みも気になる。そもそもあの街を車で運転したくない。面倒くさい。金もない。食費、駐車料金、映画のチケット代(2本観たい)、いろいろ考えると億劫になる。
 こういう億劫さって、もう若くないのかなとも思うけど、それはそうと、ここで思うのは、なんというか、生き方の問題。
 太く短く、という。
 細く長く、という。
 どちらがいいとか悪いとかじゃない。ただこういうときに、ケチらずにどんどんお金を使うべきなのか、倹約して使うときにここぞとばかりに使うべきなのか、自分はどうしようかといつも考えてしまうのだ。
 この場合は、明日映画を観に金沢まで行くのか、ということ。
 そもそもこういうことでうじうじ悩んでいる時点でケチくさいのだけど、ちょっと考えてしまうのだ。
 話は変わるけど、いつも思うことがある。
 ぼくは毎朝車で30分かけて職場まで行っているのだけど、こういうときにふと思うことだ。
 例えば、対向車線から来る大型トラックとすれ違う直前、こっちが急にハンドルを切ってそれと正面衝突してしまえば……。しまえば、全部終わりだよな、と。そもそもこっちがしっかりとハンドルを握っていても、先方が急ハンドルを切れば、同じとこだ。
 運転していて、ふとそういう考えに取り憑かれると、どうしようもない恐怖にかられる。気がおかしくなりそうになる。いやむしろ、平気な顔をして運転していることの方が気がおかしいのではないか。一瞬で全てが終わってしまう状況の中を、平気な顔をして生きてるって、ちょっとおかしい。こういうとき、ほんとみんなどうしてるんだろうと思う。
 簡単にいってしまえば、明日死ぬかもってこと。
 明日死ぬかもしれないのに、金をケチって明後日のことなど考えながら、平気な顔をしてスパゲティなぞ食っていていいのだろうか。
 かといって絶対死ぬわけじゃないし、死なない確率の方がずっと高いわけで、その体でやっていかないとどうしようもないから、みんなそうやっているのだろう。そうでもないとやっていけない。
 かといって、あの世まで貯金を持っていくのも馬鹿らしい話だ。
 多分、そういう、1か0かの話じゃなく、その間の淡いグラデーションの中に日々の悲喜こもごもがあって、それが面白いのかもしれない。いや、でも、死んだら0だよな、とも思う。
 2011年4月、東北を旅したときのことを思った。
 あの出来事の1ヶ月後だ。
 ぼくはカメラを持って、夜行バスで仙台まで行った。そこから歩いて、津波の後の街(もはや街とはいえない、漠とした「場」)まで行った。たくさん写真を撮った。あまりに生々しいので全部はここには載せないけど、一枚だけ選んで載せたのがトップの写真だ。別にこれについて解説はしようとは思わない。
 そのときのことをを思い出したのだ。
 だからといって、自分の人生をしっかり生きようとか、絆を大切にしようとかいうことではなく、ただ、なんなんだろう、という、言葉にできない不安と恐怖が思い出されたのだ。なんなんだろう。
 感傷的なことを書いても意味はないだろう。かといって、あくまで意固地に自分語りをしても仕方がない。
 ただ、そのことが思い出されて、パソコンの中の2011年4月の写真を眺めてしまい、どうしようもない苦しさとか、もどかしさとか、不可解とでもいうべきことがらを思い、この文章を書いている。
 多分、なんの答えもない。
 どんな生き方があるかはわからないし、ぼくだって津波の後を歩いてもわかるわけもなかった。なにを感じたのかさえもよく覚えていない。ただ、それ以降、津波に遭う夢をよく見るようになったけれど。
 同じく、2011年4月の写真をブラウズしていたら、当時の自分が書いたものを撮った写真があったので、それを乗せることで締めたいと思う。すっかり忘れていたものだけど、山村暮鳥という詩人の詩だ。
 
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 想像力を大切にようと思った。