ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

わたしの平成の3冊 3位『月』(辺見庸)

 
 先日、朝日新聞で「平成の30冊」という記事があって読んだのですが、それが結構面白かったです。
 30冊のうち3分の1はすでに読んだ本で、なるほどなと思ったり、知らない本も何冊もあったりして、楽しい特集でした。
book.asahi.com 考えてみれば、ぼくは昭和生まれとはいえ、物心ついたときにはすでに平成でした。ぼくが本を読むようになったのは平成になってからです。
 なので、このブログで、ぼくが平成時代に読んだ平成に刊行された本3冊を選んで、「わたしの平成の3冊」を書こうと思います。平成もあと2週間ほどなので、その間にこの3冊に食い込んでくるものはないだろうと思うので。
 真似していいです。ブログに書いたり、ツイッターで「#わたしの平成の3冊」とハッシュタグを付けてつぶやいてください。
 
 
 3位 辺見庸『月』(KADOKAWA)平成30年

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〈月〉の書は井上有一 装丁もかっこいい(鈴木成一デザイン室)
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読んでるだけでそそられる登場人物紹介
 平成28年夏の朝まだき。神奈川県相模原市にある障害者福祉施設で19人の重度の障害者が殺されるという事件が起きました。殺したのはこの施設の元職員の男、植松聖。
 彼は、入所者たちに「おはよう」と声をかけ、返事がない者を「人間の心がない」と判断し、片っ端から数日前に購入した大型の刃物で刺していったといいます。
 「障害者はいなくなればいい」「意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在」「安楽死させなければいけない」という言葉が実際に吐かれました。そしてそれが現実になってしまったという事実。
 ぼくはこの事件に本当に衝撃を受け、その後『阿呆舟』という小説を書きました(新人賞に応募するも落選)。
 この事件の持つ意味はとてつもなく深いと思っています。
 『月』の話。
 語り手は、障害者施設の入所者「きーちゃん」という性別不明の人。そして、きーちゃんの世話をするのは「さとくん」という青年。ほぼこの二人のみで物語は進み、途中、きーちゃんの幻視のような「あかぎあかえ」などが出てくる。
 きーちゃんは、見えない・喋れない・動けないという障害を持つ人で、あらゆる介助をさとくんから受けています。基本的な介助の他に、時にさとくんは、世界を良くするための計画を話してくれたりするのだけど、きーちゃんはそんなさとくんが好きなんですね。摘便(出てこない大便を指で掻き出す作業)の指の動きすらも、さとくんに対する愛着なんです。
 きーちゃんは、見えない目で見る「マスカットグリーンの」映像からものを見(赤い服の女やカフェ「ティシナ」の店内など)、耳ではさとくんが歌う「ロッカバイ ロッカバイ ロッカバイ ロッカバイ バイバイ ロッカバイ」という歌をなんんども繰り返し聞き、鼻で生々しい人間の匂いを嗅ぎ、そこから小説を描写します。
 さて、さとくんとはだれなのか。そしてきーちゃんとはだれなのか。当事者として考えること。わたしはどうなのか。
 
 事件以降、この事件を話題にすることがある種のタブーというか、どこか避けられいる、憚られているような空気があると思っています。犯人植松聖への賞賛まではいかないにしても(相当数いるらしいけど)、彼の言っていることにどこか同意してしまうところが世の中にあるのではないでしょうか。
 そこにぼくは、なんとなく不穏で気持ち悪い空気を感じています。
 しかし、人を「生きる価値のない人間」と決めつける権利はだれにもないはずです。そして、生きていてはいけない人間なんて、絶対に一人もいないとぼくは思っています。この事件以降、それは一層強く意識されたような気がします。
 『月』では、「“ある”とはどういうことか?」という問いが繰り返されます。初めて読んだときには、なんでこういう問いがこの小説で?と思っていたのですが、ぼくが読むに、こういうことだと思います(個人の読み方です)。
 つまり、“ある”ということは、それだけで絶対的に価値のあることなのではないか、ということ。存在の善。“ある”、それだけで善きことである、goodnessである、ということです。人は、いえ、人だけでなく物は(きーちゃんは自分を「物」だと自嘲したけど)ある、それだけでこの上ない価値を持つのだと思います。「生産性」とやらは人間の自分勝手な方便にすぎません。そんなものあろうがなかろうが、人間の存在は“ある”だけで絶対的に価値のあることだ。そのことをいいたかったのではないでしょうか。
 
 これからは自分の問題意識の話ですが、書きます。
 障害者差別を含む差別意識はどうして生まれるのだろう、と考えることが多くなりました。
 答えをいうと、つまり「被害者意識」だと思っています。
 話題になった(なっている)『82年生まれ、キム・ジヨン』という韓国の小説の解説にも、「今韓国社会にはびこる女性嫌悪は、「劣った性」として差別するというよりは、むしろ「不当に恵まれている」と言って攻撃する」という文がありました。つまり、あいつらばかり保護されて、おれたちばかりなんでこんなつらい思いをしなくちゃならないんだ、というような「被害者意識」なのだととりました。『82年生まれ』では、「ママ虫」という蔑称で、夫の収入などで贅沢する(コーヒーショップのコーヒーを飲むという程度だけど)主婦が陰口を言われる場面がありました。陰口の主は男のサラリーマン。これは実際にあった(ありふれた)ことのようです。韓国も日本も変わらないでしょう。むしろ、韓国ほど問題意識が浸透していない日本の方が危ういのかもしれないけれど。
 話を元に戻すと、障害者差別も似たような構図ではないかと思います。
 原理的に、自分の人生ひとつがなんの不自由もなく、快適に、ノーストレスで生きられているのなら、そんな差別意識は生まれないだろう。介護職員にしても、下世話な話、相当量の給与が支払われたりとか家庭になんの問題もなかったりとか、そういう環境であれば、ベランダから高齢者を突き落とすというようなことはないだろう、ということです。あくまで理屈の話ですが。
 そういう被害者意識が人々の中に(ぼくもそうです)あるから、この事件の問題が複雑になっているような気がします。
 とにかく今は、寛容であることが切実に求められている時代だと思います。ぼく自身もこれからそれを意識していこうと思います。自分がつらくても、それで人を攻撃してはいけない。
 
 また、辺見庸NHKの「こころの時代〜宗教・人生〜」という番組で、こんなことを言っていました。
 「植松なんて人間じゃない。こんな奴は死刑にしてしまえ。……もしあなたがそんなことを言うのだったら、あなたも植松と同じことを言っている」(要約)
 これはすごい言葉だと思いました。
 植松を殺せ、だけではない。麻原然り、酒鬼薔薇然り。凶悪な殺人犯や悲惨な事件を起こした人間にも似たようなことを感じてしまう部分はあるかもしれないということです。植松と同じ差別意識は、実はだれの心にもあるのではないか。ぼくもそうです。それが人間というもの。でもそのままでいいのか。
 今まで見ないようにしてきた、人間の持つ不穏な暗い部分に目を向けさせられた気がします。
 
 そんなことを考えると、こういう本が世に出たということは大事件だと思います。
 見ないふりをして生きていくわけにはいきません。
 綺麗事を言って「お為ごかし」ばかりしていては、この問題はなんの明るみも見ないと、問題意識を持っています。
 
 
次回:2位『あん』(ドリアン助川