ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

意味のある偶然

 
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 ぼくが大学院にいたときにお世話になっていたカウンセラーの先生は、河合隼雄氏のお弟子さんで、つまりユングの孫弟子にあたる。
 なので、河合さんやユング心理学について、よく話してくれた(ぼくのカウンセリングだけど彼の方がよく喋っていた)。
 たくさんのことを覚えているけれど、今思い出されたのは「シンクロニシティ」について。
 シンクロニシティというのは、全く関係のなかったもの同士が、その人の前でばったりと出会ってしまうこと、とでもいおうか。そこに驚くこと。例えば、たまたま読んでいた本に書かれていたこと(インド人はOKのことをアッチャーと言うとか)がその場で目撃されるとか。
 これは卑近な例で上手くはないが、先生は「シンクロニシティというのは、意味のある偶然のことなんです」と教えてくれた。
 なにかとなにかが偶然繋がるとき、そこには重要な意味があると。いや、正確には、本人がそこにどういう意味をつけるのか。
 ユングは晩年神秘主義に走ったきらいがあるとされているけど、ぼくはそれをあくまで、「意味をつける」「自分の中で物語にする」ということだと捉えた。偶然を物語にするのだ。
 例えば、虫の知らせという言葉がある。好きだった親戚のおばあちゃんが亡くなる前の日に鈴虫が鳴いていた。あれは、鈴の付いたキーホルダーを愛用していたおばあちゃんが寄越した便りだ、というふうな。
 これは、現実的な見方をすると、たぶん鈴虫はしょっちゅう鳴いていて、おばあちゃんが亡くなったこととたまたま前日あったありふれたことを作為的に結びつけているに過ぎない、ということになる。実際そうなのだろう。
 だが、おそらく重要なのは、その(作為的な)結びつきが、親しかったおばあちゃんを失くした本人のつらさを癒す、ということなのだろう。これが「意味のある偶然」ということなのだ。
 「全ては必然だよ」という言葉がぼくはあまり好きではない。起こるべくして起こったのではなく、世界中であらゆることがてんでばらばらに起こっているに過ぎない。偶然だけだと思う。
 でもそこに、本人がどういう物語を作るのかということが大事なのだと思う。
 「箱庭療法」というのものをぼくもやったことがある。これもユング心理学と関わりのあるもので、1メートル四方くらいの砂地の枠に、ミニチュア(人、動物、建物、木や池、橋とか塔とか…)を自分の好きなように気ままに並べるという、ただそれだけのものなのだが、これでなにを得たいかというと、無意識のうちにただ並べ上げたものを、自分がどうフィードバックして捉えるのかということだ。例えば、ぼくはそのとき、川を流し、橋を渡して、そこに動物たちを歩かせた。その先にある小高い丘にはトーテムポールのようなものを置いた。それは、「通過」とか、高いものへの憧れとか、そういうものが自分の中にあるのかも、と気づくことに繋がった。本当はそれを自分で気づくべきなのだが、先生には「宗教的なものに惹かれるのかな」と言われた。そう言われることで、わからなかったビジョンが少しだけはっきりするところがあると思う。これだけでもかなり助かる。
 たぶん、シンクロニシティの考えもこれと繋がっていて、ただまるまるここにあるだけの世界に、自身がどういう物語を作るかということなのだと思う。そこに意味を見出せれば、新しい、面白いものが見えてくるような気がする。
 
 というのも、ぼくは今スティーブン・キング文章読本(?)を積ん読の山から、たまたま思い立って引っ張り出して読んでるのだけど、それとは別にトイレで読んでる雑誌の次回の特集予告がスティーブン・キングだったという偶然があったのだ。今更この忘れられたような(と思っていた)作家がここで繋がるだろうか?と驚いた。これはなにかあるような気がする。ここでその「意味」を決めることはしないが(それがいいと思う)、いまだに引っかかっている。
 偶然に自分がどう向き合うのか。向き合うというか、ただ流されているだけで、その意味は自然と現れてくるのだと思うが、と同時に、偶然の一致というものは、ただ漫然と暮らしているだけでは見出すことすらできないのだろう、とも思う。常になにかを求めていることが要求される。
 そして、そうして生きていれば、こういうことはいくらでもある。なんなら毎日ある。そのほうが面白いだろう。楽しいだろう。
 さて、このスティーブン・キング事件が後々どう流れていくのか、少し楽しみでもあります。キングばりのスリリングな展開があるのか?雑誌の次号を待ちたいと思います。