ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

『居るのはつらいよ』

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東畑開人『居るのはらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)

 ある人に薦められて、『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』という本を読んだ。
 これは、京大で臨床心理学を学び、博士号までとった著者が、条件の良さから沖縄のあるデイケアに勤めることになったことに始まる物語。
 デイケアとは、障害があって働けない、日常生活を送ることが困難な人の居場所といったところで、そこでは軽いプログラム(塗り絵、カードゲーム、スポーツ、行楽など)が組まれている。そこである程度の生活の訓練ができて、就職などに向かう「通過型デイケア」と、事実上の終の住処のようになっている「居場所型デイケア」とがあるのだけど、この本の舞台は、居場所型デイケア
 しかし、著者は初日から戸惑う。
 最初の仕事は、「とりあえず、そこに座っ」ていること。メンバーさん(利用者)たちと同じ空間に、ただ、いる、だけ、なのだ。
 プログラム以外の時間帯は、ほんとうになにもせずに、ただ座っているだけ。それが仕事なのだ。
 「それでいいのか? それ、なんか、意味あるのか?」
 著者はそんな声を聞く。なにもせずにただいるだけなんて、それでなにか価値が生まれるのだろうか?
 その声の正体をつきとめるという「大感動のスペクタクル学術書」。(限りなく一般書に近い)
 
 なにもしないで、ただいるだけでほんとうにいいのだろうか?
 そういうことは、ぼくもよく考えたことがある。ほとんど引きこもりに近い、無職の時期があったから、そのころはそういう自問を繰り返していた。ただの穀潰しではないか。そう自責するのは「つら」かった。
 だから「あなたは、ただいるだけでいい。存在しているだけで価値がある」と言われても、正直いって簡単には納得できない。なぜか、居るのはつらい。
 これを語るとき、ぼくはどうしても、相模原市津久井やまゆり園の事件を引き合いに出してしまう。少しだけお付き合いいただきたい。
 この事件は、『重度の障害者は生きていてもしかたがない。安楽死させたほうがいい』という自身の言葉どおり、植松聖という人物が、確信犯としてそれを実行した事件だ。「生産性」のない人間には価値がない、と。
 この事件を題材にした、辺見庸の『月』という小説がある。それについては、過去にこのブログでも書いたことがある。
nouvellemer.hatenablog.com この小説では、「存在とはなにか?」「“在る”とはどういうことか」という問いが繰り返される。
 その真意は小説なので明かされないけど、ぼくはこう読んだ。
 つまり、「存在とは絶対善なのだ」と。
 物が存在する、人が居る、ということは、絶対的に間違っていない、ただそれだけで最高の価値があるのだ。なにかと比較するのではなく、外部を持たない唯一の存在として、それは善である。そう思ったら、なにかがひらけた気がした。
 しかしそう言われても、上に書いたように、そう簡単には納得できない。そして、万人を納得させられるような言葉をもつ人はいない。
 でもそれでも、それはだれかが言葉にしなければいけないことなのだ。
 そう。物語というかたちであれば、ささやかながらそれは可能かもしれない。作家の才能をもった人であれば、それを(物)語ることで、ぼくのようなだれかを気付かせられるかもしれない。
 この『居るのはつらいよ』も、そんな物語の一つだ。
 ここには、ただ、いる、だけ、の人たちの物語があり、それが「ケアとセラピー」という臨床心理士の視点から描かれている。
 なぜ、居るのはつらいのか? 声の主はだれなのか?
 その正体を掴んで、握りつぶせ。
 
参考過去記事
 この本にも登場する『中動態の世界 意志と責任の考古学』(国分功一郎)という本についても、過去に読んで記事に書いています。
 同じ医学書院の〈ケアをひらく〉というシリーズで、これも大変重要な本です。
nouvellemer.hatenablog.com