ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

最近読んだ本 その2

 
その2です。その1はこちら。
 
『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』
ロビン・ダンバー・著 小田哲・訳(白揚社, 2023)

あまり本についての情報を知らないまま、タイトルとサブタイトルに興味を惹かれて買った本でした。なので内容がちょっと思っていたのと違ったけど、それでも最後まで面白く読めた。
著者は「無神論者」を自称する科学者で、主に人間(霊長類)の脳と自分が身内として把握できる集団の規模の研究で業績を残した人らしいです。それを「進化心理学」という。
ちなみにその「自分が身内として把握できる集団の規模」を「ダンバー数」として定義していて、それは約150人ということでした。
それで、ネタバレのようですが、本書でもその150人というスケールが軸になっています。ここは正直、自分が提唱した概念に恣意的に持っていってないか?という疑問もないことはないけど、一応は納得というか、面白く読めました。
ということで、なぜ〈神〉が必要だったのか?という疑問をあくまで科学的に探求した本で無味乾燥のようですが、むしろそこに、言葉で認知する社会的な動物としての人間の本質のようなものが見えて、たくさんの発見がありました。このサブタイトルにピンとくる方は読んでみるといいかもしれません。
もちろん、著者は宗教心を否定する意図はなく、そこは全く分けて考えられています。だからこそ本質的な宗教概念が取り出せたのかもしれません。

こうしてたどりついた唯一の現実的な解決策が、直接触れることなくエンドルフィン分泌をうながす一連の行動だった。それはいまも、私たちの社会的な相互作用の中核となっている。獲得した順に行動を並べると、笑うこと、歌うこと、踊ること、感情に訴える物語を語ること、宴を開くこと(みんなで食事をして酒を飲む)で、最後に忘れてはならないのが宗教儀式だ。いずれも言葉に依存するため、ヒトにしかできない行動である。
(p.124)

 
『仏性とは何か』
高崎直道(法蔵館文庫, 2019(底本は『増補新版 仏性とは何か』1997))

〈仏性〉(ぶっしょう)とう概念は、仏教用語で「悟りを得る種=可能性」といったもので、特に大乗仏教ではすべての生きとし生けるものが持っているとされています。それを「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」という言葉で端的に表し、最重要視しているのです。
また、特に日本では「生きとし生けるもの」として、人間のみならず、動物も、植物も、山も川も……あらゆる存在を指します。それを「山川草木悉有仏性」といって、そこに日本的な感覚があっていいなあと思うのです。自然はいのち、あらゆるものは救われる。
そこでこの概念に引っかかった人が、道元という人物でした。鎌倉初期に同時多発的に起こった新しい仏教思想のうちの重要人物で、禅宗である曹洞宗の開祖です。
「あらゆるものが悟れるというのに、なぜ今更修行する必要があるのか」
考えてみればごく当然の疑問に引っかかるのが、彼の超天才たる所以でしょう。
本書は主に道元の研究をもとにした著者の考えが集められたものです(論文あり、講演録あり)。
正直専門的すぎて難しいところもありましたが、わかりやすいところはわかりやすいし、〈仏性〉という概念を知るための良書だと思います。

(前略)如来のはたらきが、完全であるとすれば、それが衆生の側に当然反映してくる道理で、如来の慈悲が深ければ、衆生は必ず覚さとらされねばならない。 少なくとも仏の側から見れば、そこに例外はない。(中略)もし、何らか、悟りをさまたげるものがあるとすれば、それは衆生の側の過失でしかない。(中略)そこで、この仏の教えを信解することが、仏道修行の出発点とされる。何を信解するかといえば、それは「あなたは悟れる」という仏の予言(授記)である。
(pp.269-270「悉有仏性・内なるホトケを求めて」)
※如来=仏=ホトケ=悟り、衆生=わたしたち、としていいと思う。

「あなたは絶対に救われる」という仏の言葉を疑ってはいけない。
 
 
『不道徳的倫理学講義 ——人生にとって〈運〉とは何か』
古田徹也(ちくま新書, 2019)

これもサブタイトルに惹かれて読みました。ごく普通に生活で使われる意味での〈運〉というものを哲学的に考察したものです。
哲学の分野において、〈運〉というものは見過ごされ、あるいはむしろ哲学の埒外であるとして嫌われてきた歴史があると著者はとらえ、改めてこれを考えたく本書を執筆したとのことです。
つまり、〈運〉などというものを言い訳にしてはならない、自らの運命は自らで切り開く、自分のなしたことの責任は自分で取る……と考えるのが本来の「道徳」「倫理」であり、そんなもの考えなくてよい! その考え方を問題視したのです。それで、自分の思想を自虐的・皮肉的・挑発的に「不道徳的倫理学」としたのでした。
最初の1ページ目に、『こち亀』の両さんがこう叫んでいるひとコマを載せています。

「入試 就職 結婚 みんなギャンブルみたいなもんだろ!」
「人生すべて博打だぞ!」
(秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第60巻)

これは極端ないい方にしても、一般的にはこの言葉には「それはおかしい」という言葉が返ってくると思います。
でも果たして本当におかしなことを言っているのだろうか?
実際、「博打」みたいなものじゃないか?
極論をきっかけに、〈運〉という、ままならないものを巡って、哲学の歴史を問い直した、他にはない本だと思います。
自由意思なんてない! いや、自分の力で生きている!
う〜ん、どっちなんだろう。どこに着地するんだろう……?
多分ぼくは「自由意志なんてない」ということをわかりたいのだろう、と思うのです。自己責任論を否定してほしい。そう言ってくれる言葉を探している。
もちろん慰めというようなものではなく、真理として、むしろ自分の考えを正してくれるものとして教えてほしい。自分の間違いを諭してほしい。そういった感覚で。
 
……その3へつづく
nouvellemer.hatenablog.com