ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

最近読んだ本 その3

 
その3です。その1はこちら。その2はこちら
 
『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』
河合香織(文春文庫, 2021)

随分と前から「出生前診断」に興味を持っていろいろと見ています。
出生前診断とは広い意味では、出産前の時点で胎児に何らかの異常がないかを検査することですが、最近ではNIPT(新型出生前診断)といって、母体の血液検査のみで3種類の染色体異常がわかる検査がかなり広く行われているようです。手軽にできることや費用も安いこともあるとか。
ぼくは結婚もしていないし子供もいないので、この検査があること、利用することについてどうこうは何もいえないのですが(不安ビジネス的な側面は問題だけど)、これは本としてとてもよかったので紹介しようと思いました。
サブタイトルにあるように、ここではある事例を扱っています。つまり、出生前診断(NIPTではなく羊水検査)で「異常なし」と言われたにも関わらず、生まれた子にダウン症があり、その他合併症で3ヶ月で命を終えた子(天聖くん)、その母親が誤診した医師を訴えたという裁判について。
これはすごく微妙な事例で、初めてこのあらすじを知ったとき、ダウン症児を産んだからといって医者を訴えるなんて…と母親に対して嫌な印象を持ったことは確かでした。
しかし読んでみると、話はそんな単純ではないことがわかります。
数ページ読むとわかるのですが、出生前診断で染色体異常がはっきりと告げられていたとしても、じゃあおろしていたかというとそういうわけではない、そこは本題ではないというのが、母親の本意です。裁判の結果が不利になるにも関わらず、そのことを明記するように訴状を書き換えてまでいます。
かなり哲学的な議論になってしまうけど、ロングフルライフということを問う裁判でもあることが、本書の独自の点です(もちろん母親はそんな言葉は知らず、結果としてそういうことになった)。

出生前診断の法律問題』(丸山英二編)によると、(中略)ロングフルライフ (Wrongful life)訴訟は、同じ状況において、「子自身」が主体となる。医師の過失がなければ、障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と主張して提起する損害賠償請求訴訟だという。
 つまり、障害を持っている「生」と、中絶によって生まれなかったことが比較され、 生まれたこと自体が損害に当たると主張するのだ。 自分が生まれたことが損害であり、生まれてきたのは間違いだったのだと——。
(p.80)

こう書くと、障害を持って生きること自体が(あるいはその有無に関わらず生まれること自体が)「損害」であり「間違い wrong」であるという主張のようで誤解がありそうですが、一応は「本人が」そう主張しているということです。そう言う権利はあるし、自分でもちょっと思ってます。だから反出生主義とか優生学みたいな話に微妙に絡んでくるけど、その微妙な違い(主張の主体、制度のあり方)は重要だと思う。先日最高裁違憲が認められた「旧優生保護法」という話題もあり……。
堅苦しい話になってしまいましたが、この件でいうと、あくまで母親の主張としてはシンプルに「天聖に対して謝罪と補償をしてほしい」という願いなのです。
だからむしろ、我が子の命への尊厳を認めてほしいという願いだともいえる。
これははっきりと書いておく必要があると思うので書きますが、ぼく個人の考えでは、生きていてはいけない人はいないと思う。
それは前提として、しかし本人がどう思うのか、他人が、社会がどう決めるのか、答えの出ない疑問を延々と考えざるを得ないような本でした。
ひとつのテーゼを文章にしただけの本ではなく、現実にあった事例と関連事例の取材(もちろん本人への取材も含む)と著者の葛藤がそのまま本になったという体で、それだけに自分の考えを揺さぶられました。

 赤ちゃんがお腹にいる時は、「元気に生まれて来たらそれでいい」と誰もが思っているだろう。だが生まれてくれば、あれが人と違う、これができない、とあれこれ悩んでしまう。それほどまでに自分は、人間は、欲深い生き物なのだ。初めの気持ちを持続できれば、もっと温かい子育てができるかもしれない。けれども、と立ち止まる。「元気に生まれたら」ということは誰もが願う。そこを満たすことができなかった母親は、どれほどの不安を持つのだろうか。誰も実母を責めることなんてできない。
(p.117)

 光はずっと命の選択をする時は、「崖に落とされそうになって指一本でつかまっているギリギリのところで判断する」と話していた。
(p.182)

「本当は……私の尋問ではあんな風に『中絶していたと思う』と話しましたが、どれだけ弁護士に法廷戦略上必要だと説得されても、気持ちに嘘をついて『中絶していたと思う』と断言はできませんでした。断言していたら、判決で否定された羊水検査の誤報告と天聖の出生との因果関係も繋がっていたかもしれません。それでもどうしても中絶していたと言い切ることはできませんでした」
 光はコーヒーに口をつけない。もしも「中絶していた」と言っていたら、裁判の結果がもっと良くなっていたとしても、言わなくて良かった。言えなくて良かった。光は言葉が溢れてくるようだった。
「だって、命なんて否定できるものじゃないから。どんな風に生まれてきても命は尊いのです。だから、私も障害を持って生まれてくるべきじゃないと思っているわけでもないです。誤診されたと思うから葛藤し、育てなくちゃいけないと思うから葛藤し、なかなか受け入れられないから葛藤した。それでも……中絶していた、生まれてくるべきじゃないと言わなくてよかった。命の選別や命の否定、ロングフルライフやロングフルバース、とかそんなことではないのです。単純に医師が間違ったことをしたから謝って欲しかった。生まれたから損害なのではなくて、現実に子どもが苦しんだことに対して謝ってほしい、それだけなんです。そのことがあの子自身を否定していることになるなんて……」
 そこでしばらく言葉を詰まらせた。
だって会ってしまったんだから。だって我が子の顔を見て、そのあたたかさに触れたんだから。この子は産まなかった、いらなかったと言ったら、生まれてきて苦しんでそれでも生きようとがんばって死んでいった、この子はどうすればいいのですか?」
(pp.187-188)(下線筆写)

 
……その4へつづく