ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

2022年の3冊

 
 今年ももうすぐ終わろうとしています。
 いろいろあったけれど、なんとなく何事もなかったかのような一年でした。
 今年読んだ本のベスト3を書きたいと思います。
 
   *  *  *
 
 今年は、他力の思想に目覚めた年でした。
 
 うちはもともと浄土真宗の家です。祖母が熱心な信徒で、毎朝お勤め(仏間で「正信偈」などを唱える)をしていて、子供のころはよく隣に座っていた記憶があります。
 その祖母の勧めで、小4〜6の毎夏休み、本山の東本願寺に檀家の子供達だけで奉仕活動?(ただ寺で遊んでいるだけ)に参加していました。
 
 10年近く前、あることが縁で『歎異抄』を読むことになりました。
 たまたま、付き合いのあるお寺で勉強会をするからということで、流れで参加することになり、その回のテーマが『歎異抄』でした。
 予習として事前に読んだとき、なんて素晴らしい考えなんだ、と感動したのを覚えています。
 それまで、本、思想を読むということはあっても、なんとなく他人事、理論的にお勉強、みたいな感じで正直「使え」なく、心のレベルで「感動」することはなかった。こんな経験は『歎異抄』が初めてでした。
 ただ、ここに書かれていることはあくまでもフィクションである、という疑念が拭いきれず、その点を講師に質問したのですが、「海に飛び込んでみるんです」という答えが返ってきました。もちろん、そのときは理解できず。
 
 月日が流れて、今年の夏。
 ちょっと嫌なことがあって、家を出ました。
 宇出津のどんたくの本屋に入ったら、なんとなく五木寛之『他力』という本が目に入ってきました。平積みでもなく、普通に棚に納まっていただけなのですが、背表紙を見て、なぜか買わなければいけない気がして買ったんです。
 五木さん独特の、軽妙だけど味が深いエッセイで、噛み締めるように読みました。
 それを機に、子供のころ、そして10年ほど前から触れていた、親鸞の思想に入っていったのでした。
 それが先に書いた「他力の思想」です。(自分では信仰をもって帰依しているつもりだけど、ここでは「思想」と書きます。いつか「教え」と堂々と言えることを思いながら)
 もちろん思想の詳しい内容は書けないけれど、自分には、これがやっとわかった気がして、今生活の大きな部分を占めるようになっています。(もちろん、「わかった」なんてことはない。むしろわかったらそれで終わりで、今ごろ別のことに興味が移っているとことと思います。だから、まあ、その、矛盾する書き方しかできないのです)
 
 「悪人正機」という言葉は、高校の倫理の時間にも教わったことでした。今も教えてるのかな。
 そのときは他人事だった「悪人」ですが、今、身に迫るものとして感じているのですね。
 有名な「悪人こそ救われる」という考えだけど、簡潔に書いてしまえば、悪人とは「凡人」、つまり普通のわたしたちのことです。もう少しいうと、欲深く、怒りっぽく、妬み嫉み、人を憎んだりしているわたしたちのこと。要するに、煩悩を抱えたまま生きているわたしたち。
 そういう人間が憐れみ=救済を受けられる。(救済という単語は専門的には誤解を招くけれど、ここではご容赦ください)
 
 自分の話をさせてください。
 ぼくはある時期、それは結構つらい時期だったのですが、なんの根拠もなく、いきなりこんな考えが頭に浮かびました。
 「自分の前世は、きっと犯罪者だ。それもなんらかの重大な罪。おそらく止むに止まれずして犯した、取り返しのつかない行為だ」
 その瞬間、自分に関わるあらゆることに納得がいきました。すべての辻褄があったのです。これで全部説明できる、と。
 なんの根拠もなく思ったのに「すべて辻褄があう」なんてこの上ない矛盾だけど、自分の中では本当に納得がいった。むしろそれゆえに確かなことなのです。
 この経験が『歎異抄』を読む前だったかあとだったか、実はあやふやなのですが、このエピソードとは無関係ではないことは確実です。
 
 ひとことでまとめてしまうと、ぼくにとって『歎異抄』との出会いで、自己否定と自己肯定がひっくり返ったのでした。
 
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 1位:『「歎異抄」講義』(阿満利麿、ちくま学芸文庫、2022)文庫書き下ろし

 本屋で見つけて手に取ってみて、これは良さそうと思って特に下調べもなくその場で買った本。
 これが大当たりでした。
 著者の阿満あまさんは、実は最近NHKの番組でも『歎異抄』を紹介していたと知り、ついでにいうと父もたまたまラジオで『歎異抄』が紹介されていて興味を持ったらしく、本を持ってないか聞かれたので、もしかしたら今ブームなのかもしれません。
 阿満さんは、真宗の寺の生まれで、ゆくゆくは後を継ぐことになっていたのだけれど結局はそれは拒否して、教団とは距離を置き、あくまで研究者として浄土思想の研究をしている、ちょっと変わった人です(真宗教団もだいぶリベラルだけど、氏はそれに輪をかけて急進的)。
 だから講義(≠講話)というだけあって、かなり理論的、理知的です。それだけに、少しは知識はあるが信仰には自信がない身としてはとっつきやすくて、これがぼくの他力の思想への関心を深める起爆剤でした。
 あくまで、阿満流の理解であることは承知の上で読んでみて、自分にはこの人の講義が一番好きだと思いました。
※最初の一冊としてはハードルは高いです。
 
 2位:『地球にちりばめられて』『星に仄めかされて』『太陽諸島』(パンスカ3部作)多和田葉子講談社、2018,2020,2022)

 ヨーロッパに留学中の主人公hirukoは、突然「故郷の島国を消失」してしまう。
 失われた故郷、母国、そして母語を求めて、hirukoはヨーロッパを旅しながらいろんな人々と出会います。
 言語学者のクヌート、インド出身で女性として生きようとしているアカッシュ、グリーンランド出身のエスキモーで日本語の理解も深い言語の達人ナヌーク、ナヌークの恋人でドイツで「ウマミフェスティバル」を開催したノラ、そしてhirukoと同郷人だが失語症で何も話せないsusanoo、など。
 hirukoは留学中から、スカンジナビアの人ならだいたい意味が理解できる「パンスカ」という言語を自分で作っていて、クヌートなどとはパンスカでコミュニケーションをとります。
 そんな中で繰り返される、言語の遊び、議論、探究などなどが読んでいて愉快でした。
 国を失うことと、言語を失うことの大きな物語とは…?
 hirukoたちの、ちりばめられ、仄めかされながらする、行き先の見えない旅を追体験する中で、ぼくも「言語」「故郷」というものの今まで考えてこなかった一面(二面、三面…)を知りました。
 ヒルコもスサノオも「古事記」神話の神々です。ヒルコ(蛭子)はイザナギイザナミの間に生まれた最初の子で、形がふにゃふにゃしていて気持ち悪いからと、葦の舟に乗せされて川を流された可哀想な神様(?)。のちに日本人に祀られ、水子供養の神様になったり、ヒンドゥー教の神様と合体して恵比寿様として七福神の一人、商売の神様になったり、実は大事にされています。スサノオは知ってのとおり、その後に生まれたアマテラス、ツクヨミと並ぶ荒ぶる神で、ヤマタノオロチを倒したという。もっというと、hiruko=ヒルコ=蛭子=エビス=恵比寿で、エビスと読む字は他に「戎」があったりするけど、これは夷狄とかいう外にいる警戒すべきものみたいな意味を持つし、言葉はいろんな繋がりを持っていて、そこから始まる物語もあるのだと気付かされます。この本もそんな物語の一つです。
 日本語(この本では一貫して「日本」という単語は登場しません。「中国大陸とインドネシアの間に浮かぶ列島」とか「消えてしまった島国」みたいないい方)も中国語とか韓国語とか琉球の言葉(ウチナーグチ)と兄弟関係にあるみたいに、スカンジナビアの言葉、もっと広く見るなら、ヨーロッパ全体(英仏伊独露…なんでも)からインドまで、言葉の雰囲気はひとつながりになっています(インド゠ヨーロッパ語族)。
 そのつながりは情緒のつながりでもあって、言葉にできない心の深い層も、実は言葉で繋がっていたり、という複雑な構造になっていたり。
 ぼくはウチナーグチの「かなさん」という言葉が好きなのですが、これはヤマトグチでは「愛おしい」みたいな意味で、決してネガティブな意味での「悲しい・哀しい」とは違うけれど、でも「かなしい」が「愛おしい」と繋がることにしっくりくるし、そこに感動を覚えるんです。古謝美佐子の「童神わらびがみ」という、我が子を慈しむ曲に「かなしうみなしぐゎ(思産子)」という歌詞があって、すごく好きなんです。
 言語はたぶん、違いを表すものであると同時に、仲間であることを実感できるものなのだと思います。
 (ちなみにヤマトグチの「悲しい」に当たるウチナーグチはなく、一番近いものが「ちむぐりさ」だといわれています。漢字を当てるなら「肝苦りさ」。チムは肝=心、心が苦しくなる、締め付けられるみたいになる。それもまた心を奪われるものがあります)
 hirukoはパンスカを発明して、スカンジナビアの人たちと繋がりました。英語でもいいのに、わざわざパンスカを使って。
 そこには必然性のようなものがあって、これは、ドイツ語でも執筆し本国でも活躍している多和田葉子が描きたかった、多和田葉子にしか描けない物語なのだと思います。
 こういう作家に出会えたことは僥倖でした。間違いなく、世界的作家。自分が書くことの意義を理解・実行している作家です。書くために生まれてきたのだと思います。
 
 3位:『悩む力 べてるの家の人びと』(斎藤道雄、みすず書房、2002)

 「べてるの家」という施設を知っていますか?
 北海道の浦河町という地にある、古い教会を改修した「家」です。ここでは、病気や生きづらさを抱えた人たちが共同生活を送っています。一癖も二癖もある人たちで、常にトラブルが発生、困りに困った毎日が繰り広げられているとのことです。その日常を目撃した著者によるノンフィクション。
 これを読むと、誤解を恐れずにいうなら、スカッとするんです。
 ときに声を出して笑ったり、また思わず涙しながら、とても面白く読みました。これでいいんだよ、全然、いやよくないんだけど、みたいな。
 現場を知らない人間が、職員を含む彼らのことを他人事みたいにして見ているようだけど、なんというかそれはそれとしてありつつ、同じ人間として、生きる力をくれるように思えるんです。他人事であると同時に、自分事でもあります。
 「生きる力」とは「悩む力」だと思います。
 ウンウン悩み続けるというと体力を要するようだけど、ちょっと視点を変えて、問題を問題として抱え続ける、とでもいえるでしょうか。
 今読んでいる、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』という本にこんなことが書いてありました。

 人間の悲惨さは、時間によって薄められなかったならば、とても堪えられないものであろう。
 それが堪えられないものであるようにしておくため﹅﹅に、それが薄められないようにしなければならない。
 (中略)
 泣いてはならない、慰めを受けたりしないように。
ちくま学芸文庫版 p.31 田辺保・訳)

 べてるの家の人びとは、こんなにも困りながらも毎日を送りつつ、ある意味では何かを解決・解消しようとしてるように見えません。
 その姿は見方によっては怪しくも見えるけど、それができる場所って、実はそう多くないと思います。ある意味、したくてもできない。
 生きていく中で、「悩む力」が失われはしないだろうか。自分が「いる」ことを悩めることは、そう多くはないのではないか。
 解決・解消しようとしない、「悩む力」を持ち続け、自分の問題を抱え続けることは、本当はすごく尊いことなのだと思います。
 本書の言葉ではないけれど「困った人は、困っている人だ」という言葉があります。
 身方を変えてみると、見えてくるものがある。そして、いつしかそれが、自分のことだったとわかるのだと思います。ぼくのように。
 
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 近ごろ特に、心についての本をよく読むようになったと実感しています。
 昔から宗教的な思想には魅かれる人間でしたが、今かなり体系的に自分の中に入ってきている気がします。
 あくまで、心の問題として、宗教から生きることを考えています。たぶんずっと考えてきました。
 2022年という年、あえて書きますが、怪しい宗教とそうでないものは紙一重だと思います。でも両者は決定的に違っていて、よくよく考えてみればその根本的な違いは簡単にわかることだと思います。それは日本人とて、実は誰もが直感的に理解していることなのです。
 
 来年はどんな年かな?
 どんな本と出会えるかな?
 よいお年を!