ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

縁・自由・身体 〜金沢・現代会議を聴いて〜 ③

 
 第1回では、姜尚中氏の話を元に、漱石の話、漱石が語った「因果」について、少し仏教的なことを書きました。
nouvellemer.hatenablog.com
 第2回では、内田樹氏の話を元に、日本的霊性、それから派生した身体性と霊性の関係について書きました。
nouvellemer.hatenablog.com
 それからかなり時間が空いてしまいましたが(ほぼ1ヶ月!)、今日は、金沢・現代会議の最後を飾った二人の対談を元に、いろいろ書きたいと思います。
 

意志と責任

 第1回で、因果に生かされている以上、じゃあその(ぼくたちの)人生はなににコントロールされているのだろうか、ということが問題になった。われわれは本当に自由なのか。自由だとしたら、そこから生まれる責任という問題はどうなるのだろうか。
 内田氏はこう断言する。
「責任は取れない」
 例えばある人が仕事で大きなミスを犯したとする。そのせいで顧客が不利益を被るようなことが起き、会社として多大な迷惑をかけてしまった。こういうとき、(心ない言葉だとは思うが)「責任を取れ」と言われる、という状況は想像に難くないと思う。
 ではこういうときに、一体どうすれば「責任を取」ったことになるのだろうか。辞職するというのは論外なので述べないとして、自腹で損失を埋めることで責任を取ったことになるのか。かたちの上では一応の落とし前はつくが、元々のミスで顧客が受けた損失がなかったことにはならないだろう。
 簡単な話、当たり前のことだが、時間は逆には戻せない。だれにも動かせない、厳しい現実だ。だから「責任は取れない」。
「責任を取れ」とい言葉ほど無責任な言葉はない、とぼくは思う。 
 話を元に戻すが、今ぼくたちが自由に生きているのだとしたら、ぼくたちは自分のあらゆる言動に責任を持たなければならない。こういうことは当たり前の前提としてまかり通っていることは間違いないと思う。自己責任論が半ば暴力的に蔓延っている。
 これに対して因果の話を持ち出し反論するつもりではないが、もし、ある人の言動に至るまでの過程とその後の社会への影響を因果の法則で見るなら、果たして一人の言動への責任はその人一人で全て負わなければならないのだろうか、という問題が浮上する。
 もちろん、仕事のミスを人のせいにするという話ではない。あくまで最終的なアウトプットは彼自身だ。「形式上」だれかが「責任を取る」としたら彼だろう。

中動態の世界

 ここで「中動態」という概念が登場する。(以下はぼくが両氏の対談から連想したことなので、イベントとは無関係です)
 ぼくたちは当たり前のように、する側・される側という対立を無意識のうちに考えている。能動と受動だ。する側がなんらかの意思を持って能動的に行為し、その行為の先にある側がなんらかの行為をなされる(受動)。こういう対立で物事を考えることを普段からしている。
 国分功一郎氏の書いた『中動態の世界 意思と責任の考古学』には、実はそれはごく最近の考え方で、言葉が生まれたころには「中動態」というものがあったということが書いてある。それについて(考古学者が遺跡を丁寧に発掘するように)徹底的な言語的手法で、中動態のかたちを掘り出すことに尽力している。確かにあったのだと。
 中動態とは、第2回にも書いたが、能動的ともいえないし、受動的ともいえない。もしくは、能動的であり、受動的でもあるような状況を表す(著者はこういういい方を正確ではないとしているが、便宜上ここではそう書くことにする)。簡単な例が、カツアゲされて金品を差し出してしまうような状況だ。
 本はあくまでも言語学的な意味で、その姿を掘り出すことに終始しているので、詳しくは書かないが、とにかくニュートラルな感覚「中動態」というもののかたちについて、よく知ることができる。
 では、こういうものが確かにあったということで、著者はなにがいいたかったのだろう。
 ぼくはこう思う。つまり、当然視されている「自由意志」に揺さぶりをかけ、「責任」という概念を問い直したかったのだろう、と。
 ぼくたちは、自由意思によって、自分の力で生きていると思っている。もちろん、大方それで間違いないと思う。
 ただ、第1回にも引用した漱石の言葉にもあるように、自由と独立とを突き詰めた先にあるものが、虚しさ、寂しさだとしたら、少し悲しいではないか。
 中動態の考え方は、そういう悲しさを癒してくれるような気がする。
 そもそも、因果、縁という考え方は、人一人で(自力だけで)生きているわけではないということが大きな意味だった。ひとつひとつの言動(果)をとってみても、それは必ずなにか(因)に依って立っているというというのがその考え方だ。そしてその因には、それを成り立たせるさらに過去の因があり、さらにそれには……と、永遠に続く。
 当たり前のように自分の力だけで生きているという自覚を諌める、因果の考え方。そこに揺さぶりをかける中動態の考え方。
 ぼくにとって、この2つがリンクしたのだ。
 ありきたりないい方だが、全ては生かされている。その言葉の意味は、自由と独立の先にある虚しさに、一筋の暖かい光を当てるものだという風に、ぼくは捉えた。
 そう考えると、「責任」という残酷な価値観への見方も、だいぶ変わってくるのではないだろうか。
 これが、ぼくがこのイベントを通して得たひとつの考え方だ。
 
 
 結局、イベントから飛躍した持論、そしてありきたりな結論になってしまいましたが、無理やりまとめるとこんな感じです。そもそも、両氏もまとめる方向性で話してないでしょうし(といういいわけ)。
 こういう風に、このブログでも(旅と珠洲というテーマが準じながらも)いろいろと書いていこうと思います。
 最後まで読んでくださってありがとうございました。