ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

縁・自由・身体 〜金沢・現代会議を聴いて〜 ②

 
 (承前)前回の記事です。
nouvellemer.hatenablog.com
 一人目の姜尚中氏を受けて、というわけではありませんが、次は内田樹氏の講演がありました。タイトルは「大地の霊について」。
 姜さんとなら、ということで、わざわざ神戸からサンダーバードで来られたそうです。
 二人はお互いに響きあうところがあるらしく、この後の対談でもなかなか盛り上がっていました。同じものを見ていて、似たようなことを考えているように見えました。
 ぼくは氏の著書を一つも読んだことはないのですが、内田さんといえば、その確固とした倫理観を全身で生きているというイメージがあります。武道(合気道)の稽古に力を入れていて、それは氏の価値観の具現的な現れなのではないかと思います。実際に、予想していたとおり、この講演でも武道を例に出しての話がありました。
 ということで、またレポート的に自分なりにまとめたいと思います。
 

鈴木大拙の『日本的霊性』

 去年も一昨年も、このイベントで大拙に言及する際には、必ずといっていいほど『日本的霊性』が引き合いに出される。ぼくは以前に、同書の勉強会に中途半端に参加して、その後また中途半端に読んだことがあるので、難しいといわれている本だが、講演での話は少しは深く理解できたと思っている。
 内田氏もその例外ではなく、この本へのリスペクトが感じられた。
 では、どんな本か。
「霊性」という言葉には現代では(でも?)馴染みがないので簡単にいうと、「宗教的意識」とでもいうのだろうか。英語に訳せばspirituality(スピチュアリティ)だが、流行りの「宇宙との一体感」的なものとはだいぶ違うだろう。
 宗教というとどこか距離を置く人も多いかもしれないが、その手のいかがわしいものではなく、あくまで生活に馴染んだものとしての信仰の対象とでもいおうか。
 大拙は、第二次大戦期に、軍部が推し進める大和魂的な「日本精神」に対抗するかたちでこれを著したといわれている。日本人にとっての、宗教的意識に目覚めるとはどういうことなのか。西洋のキリスト教的な宗教観とはまるで違う、日本独特の宗教意識となんだろう。それを論じた本。簡単にいってしまうと、そういうことになる。
『日本的霊性』の主な骨格をなすのは、禅と浄土信仰の二柱だ。
 大拙はいい切る。日本人が霊性に目覚めた、つまり宗教を宗教として深いところで理解したのは、鎌倉初期になってからだと。それまでは、仏教というものはあくまで、貴族たち所有の形式上のものに過ぎず、民衆のものではなかった。あくまで宗教が人々の暮らしとリンクしたのは、禅宗浄土真宗とが生まれて以降なのだと(道元が生まれたのが1200年、親鸞が生まれたのが1173年。鎌倉幕府が生まれたのが1185年)。
 では、なぜその時代になって初めて民衆が宗教意識に目覚めたといえるのだろう。
 仏教自体が日本に入ったのは6世紀半ばだが、上にも書いたとおり、それはあくまで貴族たちのものだった。仏教の考え方を使えば、国や人々をまとめ上げられる。聖徳太子はそう考えて17条の憲法を作った。国を国らしくまとめるのに都合がよかったのだ。
 もちろん、信仰としてはそれなりのかたちはあったとは思うが、大拙によれば、それは正確な意味での日本的宗教の目覚めとはいえない。
 なぜか。
 貴族たちは、土を耕したり、牛や馬を世話したり、柴刈りをしたり、その他諸々の農作業、ひいては「大地との触れ合い」のようなことはしない。それは下々の農民や武士の仕事だ。貴族の仏教は土と触れてはいない。農民や武士こそが、大地と接して生きている人たちだ。
 書いたように、武士の台頭は平安末期で、禅宗浄土真宗が台頭したのもそのころ。
 その時期に、両者に受け入れられたのがその二つの宗教だ。このときに初めて、仏教が大地に接した。大拙はそういう風に書いている。
 つまり、鎌倉初期に生まれた二つの宗教が、土に触れて生きている人たちに心から受け入れたときに初めて、日本的霊性に目覚めたのだと、大拙はいう。大まかにいうと、禅宗は武士に、浄土信仰は農民に受け入れらたといわれている。

能的霊性・武道的霊性

 ここでやっと内田氏の話になる。たぶん、しっかりした原稿は用意せずに、その場で思いつくままに、口に任せて話していたと思うので、話はあちこちに飛ぶ。
 氏は、能の稽古と武道の稽古に精進している。
 能の「すり足」という所作がまず、大地との触れ合いだと言っていた。演者が大地とコミュニケーションしながら立ち振る舞うのだ。大地のエネルギーは足から入る。その身体感覚。これは日本的霊性的だ。
 能で演じるその動きはどこから来ているのだろうという話になった。
 演じる人にしかわからない世界だが、舞台の上には、そこに行き交うエネルギーの濃淡、密度、軽重、いろいろなものの不均衡な場の空気があるという。氏の理解では、実はその空気の縁(ふち)に沿って体を動かしているだけなのだという。
 能では「自分」を出すことを徹底的に嫌う。我のない立ち振る舞いが求められる。だから、そいう風な所作が能にとっての美意識として考えられている。あくまで内田氏の解釈だが。
 これは、姜氏の「因果」の話に通じるかもしれない。自分の意思で動いているようで、実は周りの空気との複雑な働きによって動かされているという風にもとれるかもしれない。
 能でも、その主体の周りの空気とのインタラクティブなコミュニケーションによって動かされているのだ。それこそ霊性の目覚めだと。
 一方、武道でも大地と接する身体を使う。
 これは「わたしの妄想なので他でこんなこと言わないでくださいね」と冗談で言っていたのだが、面白半分に書いてもいいと思うので書いてみる。霊性と武道の関係がわかりやすくなると思うから。
 それはこういうことだ。
 武士には海部(あまべ)と馬飼い部(うまかいべ)という二つの種類があるという。大まかな分け方をすると、水軍を率いる平家が海部。馬を操る坂東武者の源氏が馬飼い部。有名な話のとおり、平家は屋島や壇ノ浦で戦い、源氏は一の谷で馬を使い鵯越の逆落とし、倶利伽羅峠では牛に頭に松明を掲げて平家を脅かしたりした。
 海部と馬飼い部ではどちらが土に触れている人たちだろう。どちらかというと後者、源氏方だろう。その土に足をつけている方が勝ちを収め、その後の鎌倉時代の主役になった。そんな風に源平合戦を読み解くという「妄想」の話も面白かった。
 さらに、これはこの後の対談での話だったが、中年男の武道の稽古の残念な点の話があった。その手の人たちが武道の稽古でぶつかる壁として、身体問題がある。これは、身体のこの箇所をこういう風に動かせばこうなるといったようなことを頭で考えて、自分の身体を機械的にシステマチックに扱うのが問題なのだ。
 つまり武道を言語で考える。例えば「肩」という箇所はあくまで便宜上そう呼んでいるだけで、ここからここまでが肩などということは(医学上定義できても)いえない。あくまで身体というのは切れ間なく、シームレスに連なった動的な個体だ。それを部分に(言葉で)別けて、理解しようとする。そこが問題なのだ。武道とはそういうものではない。
 氏の言葉によると、武道というのは頭で考えた仮説のようなものを身体で実行して、悉くそれが間違いだったと気付きながら成長していくものなのだ。また新しい仮説を立てて、また間違いに気づき、アウフヘーベンを繰り返すようにしてステップアップするのが武道なのだ。学問の世界も同じだろう。
 その身体感覚をもってしないと、大地と一体にはなれない。そういう風にして初めて、武道にとっての霊性に目覚める、といったら無理やりこじつけたようになるだろうか。でも、事実として、大地と触れるという身体感覚は、鎌倉初期に仏教に目覚めた民衆と共有している感覚だと思うのだが。
 あちこちに飛ぶ話だったがまとめてみると、こういうことになるだろう。
 鎌倉初期、土に触れている人たちの霊性的目覚めは、大地と身体とが一体になっているという身体感覚に基づくものだった。それは現代でも体験可能で、土との触れ合い、コミュニケーションを通して、霊性を感じることができる。氏は能と武道を例に出したが、他にも、単純に農作業でもそれは感じられるだろうし、山を歩いたりしてもそうだろう。そしてまた、日本的だともいえる。
 
 
 ということで、内田氏の話をまとめて、ちょこっとだけ自分の考えを書いてみました。
 次回は、対談でのこと、それとぼくが連想した「中動態」について書きたいと思います。
 
次回予告漱石ふたたび、意思と責任ふたたび