ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

東北旅ショートノベル:6日目「岩手の人とカッパと(全文)」

 
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「お兄ぢゃん、おもしれえ時計してっなあ」
 遠野駅の駅舎を出ると、すぐに声をかけられた。声の主は客待ちのタクシー運転手のおじちゃんで、花壇に腰掛けて暇そうにしている。隣には同業者が煙草をふかしている。僕はその言葉が自分に向けられたものかどうか、最初はわからなかったのだが、僕の腕時計は確かに変わったタイプのもので、よく面白がられるので、もしかしたら僕に向かって言ったのかと思い、振り返ると彼がいたのだ。
「これですか?」
 ぼくは自分の腕時計を巻いている左腕を彼に差し出すかたちで言った。彼は近寄ってきて、
「おお、なんだこれ? これが秒針か?」と面白がる。
「いえ、ええと、これは分針で、人の顔が出てるのが時針です」
「おお。こうやって顔さ出てくっかや?」
「そうです。時間に応じて文豪の顔が出てきて、それが時間で、この針が分です」
 僕はこの変わった時計の仕組みを解説した。よく人に説明するので、もう慣れたものだ。
「お兄ぢゃん、どっからだ?」
 彼が聞く。この質問にもそろそろ慣れてきたころだ。これで僕の東北滞在は6日目になる。
「石川から来ました」
「おお、石川か。新幹線さ通ったな。観光客いっぱいだろぉ?」
「そうですね。金沢の観光地は人だらけですよ。ホテルも高いし」
 僕が言うと、今度は隣で煙草をふかしていた同業者が、
「おらぁ、金沢さ、新婚旅行で行っだなぁ」
 と発した。すかさず、はじめのおじさんが
「40年前の話だろぉ?」
 と言って、二人で笑っていた。ぼくはそれを苦笑いしながら見ているだけだ。
 それから昼食にお勧めの店はないかと訪ねたが、「その辺さ探しで、見つけるしかねえなぁ」と、つれない返事だったので、僕は彼らとは別れ、ガイドブックに載っていたよさそうなお店に目星をつけた。
 そこはすぐに見つかった。駅から徒歩5分ほどの、古民家を改修したカフェだ。僕はパスタのランチに目をつけていたので、入ってすぐにそれを注文した。綺麗な年配の女性が、上品な笑顔で対応してくれた。彼女が一人で切り盛りしているようだ。僕の他には、二人連れの女性客がいるだけで、二人はどうやら常連らしい。店員の女性と親しげに笑い合っている。店にBGMはなく、シーリングファンがカタカタと静かに回っている。
 僕はパスタを待っている間、ガイドブックを広げて今日の計画を立て始めた。すると早々、
「お兄さん、市外の人?」
 常連客の一人が言った。僕から見て店の奥の方に座っているショートカットの女性だ。
「ええ……。市外というか、県外です」
 もしかしたら、「市外」ではなく「市街」のことかもしれないと思ったが、ここ自体が遠野の市街のようなので、おそらくこの答えで合っているだろう。いや、しかし遠野はどうなっているのだ。これほど次から次へと話しかけられる街なのか。一人もんに気安く話しかけるような風土なのか。しかし僕は嫌な気分はしない。もちろん彼らは気を使って話しかけるような雰囲気でもないし、ごく当たり前のように、なんのためらいもなく声をかける。人懐っこい印象を受けるし、旅先での現地の人との会話は、一人旅の醍醐味でもある。
「ほお、県外?」
「はい石川県です」。僕は今日の計画を立てる暇もない。
「遠いとっから。ご苦労さんだ。そしたら遠野さ回ってるんだか?」
「はい。でも今着いたところで、これからです」
「ほう、そうか。じゃあ、やっぱカッパ淵は行ぐか?」
 カッパ淵とは、遠野のメイン観光地で、柳田國男の昔話で有名なカッパの話の舞台となったところだ。常堅寺というお寺の境内にあり、そこでカッパを探すというのが、遠野のメインイベントとなっているのだ。
「はい。カッパ淵は行こうかと」
「そしたら、伝承園も近いな。自転車で周るか? 遠いぞぉ。行ぐとき坂道さあっからなぁ。思ったより遠い。今日は天気いいから、ばてんなよぉ」
 その後は、次から次へと、彼女による遠野の名所のプッシュが始まった。「市立博物館に行ってほしい」とか、「千葉家はいいけど、遠いなぁ」とか言いながら、僕に相槌する暇を与えずにしゃべり続けていた。
 パスタが運ばれていくると、彼女は気を使ってか、僕に話しかけるのをやめた。そしてそのまま僕が帰るまで話しかけるのことはせず、会計のときにお互い軽く礼を言って別れた。これから彼女に会うことは一度もないだろことを考えると、不思議な気持ちになった。
 店を出て、駅に戻る。予定どおりレンタサイクルを借りて、僕は地図を頼りにカッパ淵へ向かった。
 遠野はよく晴れていた。確かにカフェの常連客が言ったように、日差しが強くて、自転車をこいでいると汗ばんできそうだ。地図によれば、カッパ淵までは5キロほどあるようだ。僕は緩やかな坂道を、ギヤの壊れた自転車で必死に登っていた。
 一度通り越してしまったものの、カッパ淵には無事着くことができた。半袖を着てきたものの、背中にはじっとりと汗をかいていた。
 常堅寺は特に拝観料は必要なく、カッパ淵も含めて見学自由になっている。僕が着いたときは境内に人影はなく、寺の裏の方から工事かなにかの音が聞こえるだけだった。
 <カッパ淵はこっち>と書かれた手作りの看板がすぐに目につき、僕はそれをたどっていく。寺の裏に出ると、どうやらそれと思しき風景が広がる。幅3メートルほどの浅い川が静かに流れ、それを木立が覆っている。涼しげな空気が僕に安心感を与えてくれた。まさに「淵」という言葉がしっくりくる場所だ。工事中の小さな橋を渡ると、その淵に出る(「工事中ご迷惑おかけします」の看板には、ヘルメットをかぶったカッパが頭を下げた絵がある)。
 淵の長さは30メートルほどで、その中ほどに祠がある。ここにはカッパが祀られている。案内板によれば、『遠野物語』に登場するカッパの伝説によるもので、彼(カッパ)は、川辺で涼んでいた人の馬を川に引きずり込もうとしたが、かえって引きずられてしまい、厩の前まで来てしまったとのこと。また、この寺が火事に遭ったときに、得意の水鉄砲で火消しに尽力したのだとか。それとこれは同じカッパなのかはわからない。
「同じじゃねえよ」
 振り返ると、小さな緑色の爬虫類のような生き物がいた。
 
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 爬虫類のように見えるが、よく見るとくちばしが付いている。そして、体は緑色だが顔は赤い。さらに、頭にぬるっと湿った皿状のものがある。皿の淵にはふさふさとした毛が生えている。カッパだ。
「そうだよ。カッパだよ」
 僕はうまく言葉が出なかった。言いよどんでいると、
「驚くことはねえ。あんたさんもカッパさ探しに来たんだろう」
 と当然のように言う。僕は、少し間を多いてから、「……ええ」というのが精一杯だった。確かにそうだ。
「だったらもっと喜ばねぇか。それともあんまり簡単に見つかったもんだからつまんねえか」
「いや、そういうわけでも……」
「まあそうだな。本来はキュウリさくくりつけた竿でオラを釣らねば捕まらねぇもんなぁ」
「ええ、そう聞いています」
「でもそれはもう時代遅れだ。今どきそんな単純な罠にかかるカッパはいねぇ。オラたちを舐めてるのかって話だ」
「それは……失礼しました」
 僕は謝ってしまった。
「確かにキュウリには目がねぇがな。ピーマンも可だ。それにさっきの話だがな。馬に引っ張られたカッパと火消しさしたカッパは別カッパだ。火消しさしたカッパは有名人さ。ゲエルってカッパでな、ここらじゃ知らねえカッパはいねぇ。オラもよく世話になってる」
「そうなんですね」
「んだ。馬に引っ張られたカッパはあんたらの間では有名かもしれねぇが、オラはよぐわかんねぇな。噂じゃぁ、そのまま人間に捕まえられたとかなんとか。生きてるか死んでるかもわがんねぇ」
「でも」、僕は気になったことを聞いてみた。「この案内板によると、これって相当昔の話ですよね。彼を、彼というのはその、ゲエルさんですか、彼を直接知っているんですか?」
「んだ。カッパには時間というものがねぇ。歳をとらねぇんだ。一旦生まれたらずっと生き続けるんだ。それはあんたさんたちとは違うところだな」
「それは知りませんでした」
 よく理解できなかったが、考えてみれば、僕がカッパとまともに話をしていることからして理解できない状況だ。信じるとか信じないのレベルではないし、彼の言うことをありのままに受け止めるしかない。
「んだ。そうすんのがよかんべ。だから、オラたちは産まれるときに、本当に産まれてきたいかどうかを聞かれるんだ。医者にな。産婦カッパ科医に。これからお前は産まれるが本当にいいか、と。オラは産まれてくることさ選んだ。後悔はしてねぇど」
 僕は、人間もそういうシステムだったらいいのにと思った。
「そんないいことだけではねぇど」、カッパが言う。「何千年も生きてっと、もう目新しいことなんてねぇど。だからオラもそろそろ死のうかと思ってる」
「そんな。なんてことを言うんですか」
 僕は会って早々「死のうかと思ってる」なんて言われて少し戸惑った。
「んにゃ。あんたさんらが死ぬのとはちっとわけが違う。カッパは好きなときに死ねるんだ。それには役所の許可がいるが、オラくれぇ長く生きでっと、それも簡単に降りるさ。あんたさんらの言葉じゃ『安楽死』っていうらしいな」
安楽死……。カッパの世界はそういうことが当たり前なんですか。しかし随分人間のことに詳しいんでねすね」
「そんなことより、あんたさん、遠野さ観光してるだか?」
「……はい」、僕はカッパの世界のしきたりに感心しきっていたが、現実に戻った気がした。といっても、カッパは目の前にいるが。「そうですね。観光ですが」
「したらば、オラが案内さするど。このカッパ淵さもう見たろ? オラに会ったんだからもうよかんべ? この後はどこさ行ぐだ?」
「ええと、伝承園っていうところに」
「いや、その後だ」
「その後はお土産を買いに」
「んにゃ。そのもっと後ぉ。遠野さ見た後、どこさ行ぐだか?」
「え、それは……。南下して平泉に」
「おしゃ。したらば、平泉さ連れてってやる」
「これからですか?」
「準備さいいか? 行ぐど?」
 僕はカッパに足を引っ張られて、そのままカッパ淵へと引きずり込まれた。
 
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 随分長いこと水の中を流されていたと思う。たぶん、人間が普通に息を止めていられる時間を遠に超えていただろう。そのせいで、僕は意識を失ったような気がする。といいながら、今はこうして大きな川のほとりに立っている。随分大きな川だ。幅150メートルはあるだろう。いや、服が濡れていないことを考えると、川の中を流されたのは記憶違いだろうか。
「んにゃ。そうでもねぇ」
 後ろから声がした。カッパの声だ。振り返ると、僕が遠野で会ったのと同じ(と思われる)カッパが立っていた。
「あんたさんは間違いなく、川さ流されてここさ来た。しかしそれは時間の川だ。まぁあくまで時間というのは人間の世界での言葉だがな」
「ここは?」
「平泉さ。このでけぇ川が北上川
北上川……」
「岩手と宮城さ流れる川だ。このへんが平泉て呼ばれてる」
「本当に平泉まで来たんでねすね」
「んだ。平泉さ案内するて言ったろ?」
 僕は「ええ」と了承して、カッパの案内を乞うことにした。
「したらば、行ぐべ」
 カッパはそう言って、すたすたと川を背にして歩き出した。僕に有無をいわさず、前だけを向いて無言で歩いている。
 途中、雑草の生い茂った急な山道を登ったり、歩きづらい石畳を歩いたりして、30分ほど経ったころだろうか、僕は妙な心地になっていることに気がついた。風景があまりに遠野とは違いすぎるような気がするのだ。遠野は農村で、平泉は史跡を巡る観光地で、両者は全然別なのは知っているが、これは同じ県なのかというくらいに違う。道行く人や空気そのものが違う気もするし、うまくいえないが、ここは本当に平泉なのかさえ疑ってしまいそうになる。いや、カッパに川に引きずり込まれて平泉に来たということからして疑うべきなのだが、そこはもう信じるしかないと、僕は開き直りかけていた。ただ、僕がテレビなどで知っていた平泉の風景と、妙な齟齬があるように感じる。しかし、なにがそうさせているのか、僕はうまく突き止められずにいた。カッパが歩を止めたと思ったら、口を開いた。
「だから言ったろう。時間の川さ流れてきたって」
「はあ……」
「勘の鈍いやつだなぁ。オラが平泉さ案内するって言ったら、平泉の現役時代さ案内するに決まってっだろう」
「現役時代?」
 カッパは「んだ」とぶっきらぼうに言う。
「つまり、その……、ここは平泉で、時代が……」
 僕が言いよどんでいると、
「西暦でいったら12世紀後半だな。だいたい」
「つまり、その時代にやってきたってこと……?」
「んだ。時間の川さ流れてきたってこと」
 確かに歴史ある街とはいいながら、いくらなんでもその時代らしくし過ぎだとは思っていた。建ち並ぶ露店は質素だし、道行く人も古いボロを着たりしている。肌も汚い。考えてみれば電線もないし、道も舗装されていない。自動車も走っていない。一切現代的な風情がない。もっと今風の建築や人工物などあってもよさそうなものだが、僕は平泉の歴史的な風景を守るために皆そうしているのだとばかり思っていた。本当に現役時代の平泉に来たのだろうか。
 僕が不思議な顔でいると、カッパは「ほら、また登っぞ」と言って話を打ち切った。
 彼が顎で指した方向にはまた小高い山があった。静謐な雰囲気が漂い、人を遠ざけるようにして、やや急な斜面が伸びている。
「ここは……」
 僕が言うと、
中尊寺だ。あんたさんも知ってっだろう」
 もちろん知っている。自分で選んで平泉に観光に来たのだから、中尊寺を知らないわけがない。ただ僕は名前だけ知っているだけだ。ガイドブックによれば、12世紀初頭に、奥州藤原氏の初代・清衡が建てた寺で、世界遺産の一つになっているとのことだ。奥州藤原氏とは、清衡・基衡・秀衡と三代にわたってこの地に栄華を誇った一族であることは高校の日本史の授業で習った。となると、カッパの話を信じれば今は12世紀後半なのだから、僕たちが今から向かっているのは、できて間もない中尊寺になる。僕はいまいち実感がわかなかった。
 カッパがまたすたすたと歩き始めたので、僕はついていく。
 思っていたよりも急な斜面だ。階段になっていてもいいくらいだが、そのような人工物はなく、僕はぜえぜえ言いながら登っていた。対してカッパは楽そうだ。
「これが月見坂ってえんだ」
「そうなんですか」
「登った先の東屋なんかで月見をしてるんだろうな、貴族たちは」
 僕は「いいですね」と言いながら、その東屋で早く休みたいと思っていた。
 さらに数分登ると、確かに東屋があったが、カッパはそれを無視してそのまま登り続けた。僕はなにも言う気になれずにいたが、すぐに本堂のようなものが見えてきた。
「本堂だな」
 カッパはあまり興味なさそうに言って、そのまま通り過ぎようとした。僕は、
「え、お参りは?」
 と顔を上げると、その先に、きらりと光るものが見えた気がした。木陰の間に垣間見える、黄金の光だった。
 
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 それが建築の発する光だとわかるまでに、僕は数十秒ほどかかったように思う。はじめは、瓦が太陽光を反射しているだけのように思えたのだが、色が違う気もする。瓦の反射する光ならもっと白いはずだ。しかし歩を進めてみると、それは黄金という言葉以外ではいい表せないくらいの、絢爛で贅沢な光だということがわかった。素人目にも一瞬で「違う」と思わせるような、一流の芸術作品に共通するものがあった。
 思わず、「なんだこれは」と発しそうになったが、それは僕も知っている有名な建築だった。
 5メートル四方ほどの、小さなお堂ともいうべき建築の表面全て、柱、梁、欄間、屋根、瓦、本当に全てが黄金に輝いている。一目で箔だとわかるような平面的なものではなく、質感、量感のある黄金だ。全ての材の芯まで、本当に黄金が詰まっているのではないかと思えるほどの質感がある。
「んだ。これが中尊寺金色堂ってやつだ」、とカッパが言う。
 僕はまだ言葉が出ずにいた。僕はこの有名な建築に、ほとんどなんの期待もしていなかった。なめていたといってもいいかもしれない。どうやら有名なお堂らしいというくらいで、岩手に来たのだから見てみよう程度に思っていたのだが、今こうして目の前にしてみて、驚きのような感覚を抱いている。
 僕は傍のカッパの不思議そうな目に気がついた。
「そんな感動したか?」、とカッパ。
 僕は少し間をおいて、「はい」と言っただけだった。全身が黄金に輝くそれは、見た者にものを言わせない、ある種の威圧感というか威厳があった。ただ、そこに黄金そのものがある。それ以上でも以下でもない、しかし誰も文句を言えないような、一つの美しさとしかいえないものだった。
 このころ流行り出した浄土信仰の影響で、極楽を表すとかなんとかで、とにかく豪華に飾り立てたお堂だということは知っている。しかし、その信仰と言えるのかはわからないが、一つの思想のようなもが形になると、これほどの凄まじい印象を人に与えるものかと、僕は感心せずにはいられなかった。人がこれほどの美を作ることができる、いや実際にできたという事実が信じられなかった。信じられないが、現に僕の目の前にあるというとうことは紛れもない事実だろう。
「そうだな。オラも初めて見たときはびっくらこいたもんだ」
「美しいですね」
「んだ。これほどのもんはカッパにはできねぇ。人間てのは気が狂ったみてぇに仕事さして、とんでもねぇもんさ作る。そこはカッパには真似できねぇもんだ」
 僕はしばらく金色堂を眺めていた。カッパも半分呆れたように、半分見守るように、傍にいた。すると、背後から声が聞こえた。
「なんですか、あなたたちは」
 振り返ると、どうやらここの僧侶らしい男が立っていた。僕は、ジーパンにポロシャツというこの現代的な服装と連れているカッパが急に恥ずかしくなって、どう説明すればいいかしどろもどろになっていた。
 すると、カッパが助けてくれた。
「すまねぇな。この人のことは気にしねぇでくれ」
 僕はそれに次いで、「ええ、ただの参拝客です」と言った。すると僧侶は、
「参拝?」
 と怪訝な顔をしている。参拝がいけないことなのだろうか。そう思わせるような態度に見えた。そういえば、僕たちがここに来るまで、参拝客らしき人は一人も見かけなかった。あまりにひっそりとしていて、僕たちだけがひょいと異世界に投げ込まれたようだった。いや、そのとおりなのだが。するとカッパが耳打ちしてきた。
「言っただろう。ここは平安の終わりのころだ。わざわざ寺やなんかに参拝するのは貴族のたしなみだ。一般人までそういう文化が広まったのは交通機関さ発達するずっと後のことだ。親鸞もまだ生まれてねぇ」
「ああ、そう言われてみればそうですね」。僕は一応納得した。
 すると僧侶が、
「何を言ってる。わけがわからんぞ。金色堂は見せもんではないんだ。それにここはカッパの来るようなところではない。さっさと出て行け。忌まわしい」
 と不機嫌そうに言うので、僕とカッパはそれに従わざるを得ず、黙って登ってきた坂を降った。僕はもう少し金色堂を見ていたかったのだが。
 それにしても、彼にはカッパが見えたということだろうか。僕にも見えているのだから不思議ではないが、カッパに特に驚きもせずに、なんともなしに追い払ったということは、この時代、カッパはありふれたものだったのかもしれない。
 
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「しかたねぇな。帰るしかねぇか」。坂を下りながら、カッパが残念そうに言う。
「いえ、僕はもう十分です」。心にもないことだが、僕は、あとは記憶に止めようと思った。
「本当はあんたさんにも毛越寺さ見てもらいてぇんだけんどよ」
「モウツウジ?」
 聞き慣れない単語だが、確かそんな寺も世界遺産の一つだったような気もする。
「知らねえか。髪の毛の『毛』に越後の『越』で、毛越寺
「ああ、あれはモウツウジと読むんですか」
「んだ。そんなことも知らねぇで平泉さ来たか」
「ええ……」僕はカッパに馬鹿にされたことを単純に恥じた。「でも、行かないんですか?」
「んだな。あんたさんの時代さ戻っても、その跡しかねぇしなあ。ぜひとも現役の毛越寺さ見てもらいてぇんだけんど」
「え、そんな。行きましょうよ」
 僕は、そういえば毛越寺といって浮かぶ風景は、(おぼろげだが)だだっ広い湖と緑が広がるシンプルなものなのを思い出して、今現役時代の毛越寺が見られるのなら、本当に見てみたいと思ったのだ。
「そうか。したらば、ちょっと歩くぞ」
 
 カッパに付いて、途中小高い丘を越えて、30分ほど歩いたら、大きな伽藍らしきものが見えてきた。生垣に囲まれたの向こうに、巨大な屋根がいくつも広がっているのが見える。
「あれですね」。僕が言うと、
「んだ。しかし……」とカッパは気の進まなそうな顔をしている。
「どうしたんですか?」
「またオラみてぇのが見つかるとよぉ、追い払われっからなあ」
「でも参拝客はいなんでしょ? また見つかったら逃げればいいじゃないですか」。僕は妙に見る気満々だ。
「んだども、今日は、なんちゅうか、イベントさあるんだ」
「イベント?」。僕はこの時代に似つかわしくない横文字に少し笑いそうになったが、それよりもそのイベントとやらの内容が気になった。「どんなイベントなんですか?」
「曲水の宴ってやつだ」
「はあ。なんか、聞いたことのあるような」
「貴族のやってる雅なイベントだ。ゆっく〜り流れる小川、遣り水っていうんだけんど、その遣り水に杯さ流すんだ。貴族たちは遣り水の淵さ座ってて、自分とこに杯のやってくるまでに和歌を一首作るってやつだ。聞いたことあんべ?」
「ええ」。僕は確かに聞いたことはあった。現代でもそれを復活させて、年に一度だけ毛越寺(現代のだが)で催しているというのをテレビで見たことがある。「それがやってるのなら見ましょうよ」
「んだか。したらば行ぐか」
「だってそのために来たんでしょ? 気の進まない顔しないでくださいよ」
「んだな」
 カッパはあまり晴れない顔をしていたので、もしかしたら、さっき僧侶に「カッパの来るところではない」と言われたことで傷ついているのではないかと思った。また今度は貴族にそう言われるのを恐れているのだ。
「んなこたねぇ」
 カッパが怒ったので、僕は「まあまあ」と言って、軽くなだめた。
 
 僕たちは生垣の隙間から、遣水の流れているのを確かに視界に収めていた。
 本当に「曲水の宴」の最中で、貴族らしき人たちが等間隔でゴザらしきものに座り、傍に文机、筆、硯、紙などがある。さらに朱色の傘がパラソルのようにさされていて、涼しげだ。
 具体的になんという言葉かはわからないが、彼らの口から歌が節をつけられて詠まれているのが聞こえる。確かに雅だ。僕が平安貴族に抱いている典型的なイメージとほぼ合致する。
 しかし僕は、その本物を目にしているということにいまいちピンとこなくて、それは映画のセットかなにかのようにして眺めていた。あまりにイメージと符合するものだからか、現実感がないのだ。貴族だって、少し妙な感じはするが、テレビの画面から出たような印象だし、伽藍も真新しく、非現実的な輝き方をしている。それが中尊寺金色堂ほど突き抜ければ感動を生むかもしれないものの、現役の毛越寺は、僕にとってはやや違和感の残るものというのが正直なところだ。それは僕の持っている貴族や寺社のイメージが貧弱だからかもしれないが、今現役の毛越寺を目にしてそのように思った。カッパには申し訳ないが。
「まあ、こんなもんだろう」。カッパが言った。
「わ!」
 僕が一人でじっくり考えていたところに、カッパがいきなり相槌のようなものを打つので、びっくりして大きな声を出してしまった。すかさずカッパが「しっ!」と、口元に(くちばし元に)人差し指を当てた。
 するとそれとほぼ同時に、僕は貴族たちの視線を感じた。その方を見ると、やはり気づかれたようだった。
「今変なところから声が聞こえたような」
 ゆっくりではあるが、貴族の一人が僕たちのいるところまで歩んできているのがわかる。僕たちはわずかばかりの木陰に身を潜めて縮こまっている。見つかるのは時間の問題だ。
「声なぞしたか?」
「はて?」
 と、続々と貴族(だろう)が集まってきているのがわかる。僕の現代的な服装を見てどういう反応をするのか興味はあるが、今は気配を全力で消すしかない。僕たちはじりじりと動きながら、よりよい木陰に移動しようとしていたが、無駄な抵抗だろうことは二人とも理解しているようだった。貴族たちは、ただぶらぶらと興味本位で捜索している程度のことだろうことは感じられたが、過剰に危機を感じたのか、カッパが、
「仕方ねぇ」
 と言って、僕の手を引っ張って境内の方へ走り出した。僕はそれについていくしない。
 当然、僕たちの姿は露わになり、境内では貴族たちが、
「カッパじゃ!」
「カッパがおる」
「もう一人はなんじゃ? 奇妙な男じゃ」
 と、騒然としだした。
 しかし、僕たちを捉えようとするような勇気のある貴族はおらず、皆おどおどとしているだけだ。もしくは訳の分からない状況にどうすればいいかわからなくなっているのだろう。離れたところに警備の武士らしき影は見えたが、彼らも状況を理解できていないようで、僕たちは不自然に時間の止まった毛越寺の境内に立っていた。
 それを確認したカッパは、
「すまねぇな!」
 と言って貴族たちに手を挙げてから、僕の腕を引っ張ってまた駆け出した。
 駆け出した先は遣り水だった。深さは数センチほどで、流れているのかいないのかわからない程度の水溜りに、カッパは僕の腕をしっかりと握ったまま飛び込んだ。
 僕の体は、深さ数センチしかないはずのそれに水没したように感じた。
 
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 息ができない苦しみから解放されたと思ったら、自分がさっきまでいた毛越寺の遣り水のほとりにいることがわかった。しかしすぐに、さっきとは明らかに様子が違うのを感じた。貴族たちが曲水の宴をやっている真っ最中なのは一緒なのだが、その向こうに大勢のギャラリーがいて、カメラを構えている人たちもちらほらと見かけられる。そしてすぐに、彼らが皆僕の方を興味の目で見ているのがわかった。
 あたりがざわつきはじめたと思ったら、警備員らしき人が僕の方まで走ってきて、
「ちょっと困りますよ」
 とかなんとか言って、僕の腕を取り、ギャラリーの外へ引っ張りだした。僕はその間「すいません、すいません」とずっと謝っていた。ギャラリーの一部の冷たい視線が痛い。僕は恥ずかしくなって、その場から逃げた。
 境内の外に出たとき、ようやく僕は現代に戻ったのだとわかった。自動車が駐車場に停まっているし、なにより先ほどいた大勢のギャラリーはどう見ても現代人だ。貴族に見えた人たちも、その格好をした現代人だろう。どうやらカッパが遣り水の中に飛び込んだことで、僕は現代に戻ってこれたようだ。
 そこまで考えて、僕はカッパのことを思い出した。
 カッパは? 彼はどこに?
 あたりを見渡しても彼はいなかった。僕はリュック一つで毛越寺の門前に立っていた。恐る恐る、
「カッパ……?」
 と声を出してみたが、返事はない。近くにいたおばさんに変な目で見られただけだった。
 もしかしたら彼は現代にはいられないのかもしれない。僕と彼が出会ったのは確かに現代だが、あれは遠野のカッパ淵でのことだ。現代でもぎりぎりカッパに会う可能性はある。というと人からは笑われそうだが、僕は実際に会ったのだから仕方がない。僕は幸運にも、そこで彼と出会うことができた。しかし、そこから遠く離れた平泉で彼と話をすることはできない。できないのだろう。考えてみれば当然のことだ。さっきまで当たり前のように一緒にいたのだが、それはここではできない、もしかしたら一生できないのだと思うと、いいようのない寂寞とした思いが湧いてきた。
 僕は彼の名前も知らないまま別れてしまった。いや、またカッパ淵へと戻れば再会することはできるかもしれないが、それはまたなにか特別な機会に恵まれないと不可能なような気もする。会って一言礼を言いたいのだが、遠野から70キロほど南下したここからまた戻ることを考えると、予定していた旅が完遂できない。いや、それくらい予定を変更すればいいのだが、僕はなぜか億劫になり、時計と予定表とにらめっこして、とりあえず今日の宿泊地の北上まで戻ることに決めた。北上は平泉から東北本線で6駅北に行ったところで、遠野に少しは近づくものの、どっちみち今日中に遠野に着くことはできそうにない。潔く、北上で休もうと思った。
 毛越寺から歩いて平泉駅まで着いたときには、日は暮れかけていた。部活帰りの学生たちがちらほらと駅の待合室に集まってくる。ここは自動改札がないので、時間になって駅員が立たないとホームには入れない。学生たちが闊達に、あるいは細々とした声で話しているのを、僕は聞くともなしに聞いていた。
 定刻どおりに下り列車がやってきて、僕と学生たち、その他の乗客はそれに乗り込んだ。かなりの人数で、列車は2両編成しかなかったので車内は混み合いそうだったが、幸い、僕は列の先頭の方にいたので、座ることができた。長い座席が列車の両端にあるタイプの車両で、座れなかった人たちはつり革につかまるかたちで立っている。それぞれに器用に本を読んだり、音楽を聴いたり、話し合ったりしている。学生が多いこともあってか、賑やかしい。
 僕は外の景色を見ようと、上半身をひねるかたちで振り返ろうとして、あることに気がついた。これだけ車内が混んでいるのに、僕の左隣の席だけが空いているのだ。これだけ多くの乗客が立っているのに、なぜ誰も僕の隣に座らないのか。僕が変な匂いでも発しているのだろうか。でも右隣はいるし……。
 北上駅までの各駅で乗り降りがあった後でも、それは変わらなかった。依然として僕の左隣は空いている。
 しかし、もうすぐ北上駅に着こうかというときに、僕はようやくその意味を理解した。そしてなぜすぐに気づかなかったのかと自分を悔やんだ。間もなく北上駅に着いて、
「北上〜北上〜。お降りのお客様はお忘れ物のないようにご注意ください」
 とアナウンスがあったとき、僕は軽く上半身を左にひねり、
「ありがとう。楽しかったよ。またね」
 と、独り言のようにほっそりとした声で呟いて、開いたドアから列車を降りた。
 
 (完)
 
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