ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

こんな本を読みました。『裁かれた命』

 
 本はよく読むのですが、これは是非とも内容を人に伝えたい!伝えねばならぬ!という欲がどうしても出て、あわよくば何かを語りあいたい、またそれが必要だと、最近思うのです。
 リアルではそういうことはちゃちゃっとできるものではないことがもどかしく、とりあえずこうしてブログに書きたいと思います。
 

 
『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』堀川惠子講談社文庫, 2015)
 
 ノンフィクションです。
 土本武司という元最高検察庁の検事は、若いころに一度だけ死刑の求刑をした経験があった。最終的にそれが通り、被告は死刑囚となる。
 しかし土本はのちに戸惑う。刑確定後、当の死刑囚から獄中から手紙が届くのだ。それも内容は、彼への感謝の気持ちを述べるものだった。
 正確には本人はその土本氏が元々の死刑求刑の発端になったことは知っていたかどうかあやふやなのですが、それはどうでもよく、土本は取り調べにおいて被告の話をよく聞いていたのでした。それも、調書のためのメモを取る手を止めて、一対一で話を聞いていました。その体験から彼に手紙を送ったのでしょう。
 元死刑囚の名前は、長谷川武。当時22歳。
 事件は1966年。強盗目的で他人の住居に押し入り、抵抗した奥さんを刃物で刺して、逃走したというもの。結局奥さんは死亡。盗んだ金は2000円ほどだったといいます。
 本書では、土本以外に、2審で国選弁護人を務めた小林健治との手紙のやり取りが主に語られます。
 そこから見えてくるのは、長谷川武という人物は本当にこのような刑に値する人物だったのか?という事実(そもそも当の犯罪はこのような刑に相応しい犯罪だったのか?)
 死刑という刑罰が現行法としてある以上、一定の条件を満たせばそういう判決が出ることは避けられないと思います。判例を無視するわけにはいかないのが現実です。
 ただ問題は、死刑を求刑する検事、最終的に言い渡す裁判官、執行の現場に立ち会う刑務官、または今だったら裁判に関わる一般人である裁判員。こういった人たちの心のうちです。
 土本は検事として当然のことをしたし、個人的にも死刑という刑には存置派の立場でした。ただあくまでそれは検事、法律家としての立場で、一応は現行法を前提としてもいます。しかし、一人の人間としての心のうちのレベルになると、本人はとにかく悩んだのだということでした。自らが死刑を求刑した当の本人と手紙のやり取りをなん度も重ねたのですから。
 事件と、長谷川武という一人の人間の人生の詳細に深く分けいられることがないまま、最終的に判決が下り、刑が執行されてしまったのは、いろいろな不運、偶然が重なってのことと察せられます。
 長谷川の生い立ちを考えると、同情をやむを得ません。
 一番驚いたのが、長谷川の刑が執行されてから数年後、土本が自分とは全く関係ない死刑囚の刑の執行の現場に自ら志願して立ち会ったことでした。それほど自分の心に深く残る出来事だったのだと思うと、胸が締め付けられる思いです。
 そして、その直後に彼が一気呵成に書き留めたメモを元にした、刑の執行現場の描写はものすごいものでした。印象的だったのは、執行直前に触れた死刑囚の体の体温を生々しく覚えているという話。そして、ごく客観的な現場で起きていること。
 
 個人的にずっと思っていたのは、人は被害者(被害者家族)になることを想像して不安になりはしても、加害者(加害者家族)になることにはほとんど思いを遣らないことについてです。
 原理的には被害者の数だけ加害者がいるわけで、自分がいずれの側に立つかは自分でもわからないということ。なぜか自分は大丈夫、と思っている。
 ぼくだって自分や家族が被害に遭うことは想像して怖くはなるけれど、それはそれとして、自分が被害を与える立場になることも全く別の意味で怖いのです。
 殺されるのも怖いけど、もしかしたらそれ以上に、殺すのも怖い。
 誤解を受けそうな表現ではあるけど、もちろんそういう予定なんてないし、リアルな想像はあまりできないけれど、可能性としてはあることは事実です。
 それは人間個人個人、誰もが持っているものだと思うのです(業、宿業という考えがありますが、宗教的になると少しずれてしまうのでまた別の機会に)。
 犯罪者への共感というものが、いつのころからか自分の中でテーマ(?)になっていて、現に実感としてあります。こういう感覚を持っている人は実は多いのではないでしょうか?
 なにかセンセーショナルな事件が起きると、「この人(犯人)は自分だったかもしれない」と思う。そういう思いを持ったことのある人は少なくないと思います。実際ネットではよく見かけます(ネットだからこそ書けるのかも)。
 みんな自分のことで精一杯。なんとなく不寛容な世の中だなと思うことが多いです。こんなことを考えるのは自分が暇人だからなんだとも思う。だけれども、こういった本の話題を出すことで、少しでも生きやすい世の中になるかもしれない、いやなってほしいと思うのです。
 あとがきで著者は、こういった問題意識についてものすごく的確に書いていました。

 この世に生を受けたときから体格や容姿がほぼ決まっているように、心の防波堤が高い人もいれば低い人もいます。頑張って成果を出す人もいるし、同じように頑張っても成果を出せない人もいます。克服できる欠点もあれば、それを抱えたまま歩まざるをえないハンディを生まれながらに負っている人もいます。絶望に追い込まれたとき、踏みとどまることが出来る者もいれば一線を越えてしまう者もいるでしょう。
 罪を犯すような事態に、自分だけは陥らないと考える人は多いかもしれません。しかし、人生の明暗を分けるその境界線は非常に脆いものです。私たちはいつ被害者になるか分からないし、それと同じようにいつ加害者になるかも分かりません。被害者や加害者の家族にもなりえます。たとえ人の命を奪わないまでも、相手の心に生涯消えない傷を負わせることもあるでしょうし、たとえ自ら手を下さなくても、傍観や無知を通して加害の側に立っていることも少なくありません。
 死刑という問題に向き合うとき、いったいどれほどの人間が、同じ人間に対してその命を奪う宣告をすることが出来るほどに正しく、間違いなく生きているのかと思うことがあります。そして、その執行の現場に立ち会う人間の苦しみも想像を超えるものがあります。
「そして、私たち」pp.428-429(下線筆者)

 長谷川が土本検事と小林弁護士に送った「最後の手紙」には泣いてしまいました。簡潔な文章(二人とも、その封書がそれまでのものに比べて「軽い」と言っていた)には長谷川の澄み切った心境が滲んでいて、その日に至るまでの彼らとのやり取りを思うと、どうしても感極まってしまいます(当時は執行前日に宣告されていた。現在では当日の朝、突然に告げられ、刑場に連れていかれる)。
 なにも、ぼくは死刑制度の如何について語りたいというよりは、もっと広い、なんというか一個の人間のいのち、存在の尊厳といったらありきたりな表現になるけど、そういった共有しがたい、やるかたない問題について考えたかったのです。考えているのです。
 ちょっとだけでも、考えるきっかけになればという思いで書きました。
 ものすごい量の取材と調査を的確にこなし、じっくりと読ませる文章で執筆、構成された、骨太の良書です。なかなかすごい著者です。『教誨師』という本も読みましたが、これもよかったので、興味がありましたらぜひ。