ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

知らないところに向かって 〜東北旅出発前〜

 

 予定を立てるのが好きだ。

 この日にはこことここに行く、というような目星はみんなつけるだろうし、行きたいところのだいたいの時間から、電車の乗り降りの細かい時間まで。それを決めて、紙に記録する。以前は時刻表とにらめっこだったが、今ではスマホのアプリですぐにわかる。乗り換えに必要な知識も必要ないので、非てっちゃんのぼくにはありがたい(と同時に少しつまらないが)。

 観光情報もネットで検索できる。今ではガイドブックを買うと、その電子版(に様々な便利な機能の付いたもの)がダウンロードもできるようになっている。そしたら紙の本はどうなるんだとなるが、やはり紙の本がいちばん使いやすいので、ぼくはそれを持っていく。

 この日はここは定休日だとか、美術館は月曜休みだとか、そういう予定をあれやこれやと計画して、旅程を決定するのがけっこう楽しい。そのわくわく感がクセになるので、気が付いたら2時間も3時間も経っていることも珍しくない。

 もしくは、あそこで会うあの人にこれをあげようと、お土産を用意するとか。この旅の計画をあの人に話すとか。このときから旅は始まっているといってもいいだろう。

 しかし。

 しかし、その計画どおりに行動するのは、好きではない。

 プログラムどおりに行動するのだったら機械でもできる。ぼくは一人で旅をしているのだから、電車の運行のようにきっちり動かなければいけないこともない。

 ただ、あえて予定を外すということはしなくて、そのときどきの好きなように動くことで、必然的に予定から外れてしまうのだ。

 旅にハプニングはつきものだからというつもりもないが、なにも知らないところに行って知らないものを見る、知らない人に会う、そこの空気を吸う。それだけで楽しいし、むしろそのために旅に出るようなものだ。予定にはない「その他」のような時間を楽しみたい。観光スポットを巡るのはその方便にすぎない。

 土地勘のないところで迷ったり不安になったりするのが、なぜか面白い。

 イタリアに行ってコロッセオを見たり、ギリシアに行ってパルテノン神殿を見たりするのもいいが、それはただ「確認」しにいくようなもので、ぼくはいまいち惹かれない。

 日本でこういうことは少ないと思うが、ある人が本にこう書いていた。中国だかチベットだかを旅していて、一人でずんずん歩いていたら、いつの間にか予期していなかったところに出てしまった。見渡す限りの荒野で、道ゆく現地人はいることはいるが英語はまったく話せない。もちろん、著者は現地の言葉はわからない。全くの孤独を味わった。そのときに、彼は旅をしているという実感を劇的に味わったのだという。

 ああ、いいな。憧れるな。共感するとともに、そんな風に思った。

 今日出発する東北旅で、ぼくもそんな思いができればいいと思いながら、今、出発の時間を待っている。