ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

インドの3K その1「くさい」

 

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  インドは様々な匂いで彩られている。

 旅した者は、その時々を思い出すとき、匂いも同時に思い出すだろう。

 ふらっと入ったカレー屋の香辛料の匂い。道端のラッシー屋で焚かれているお香の匂い。あるいは路地裏の霊廟で焚かれているお香かもしれない。そして道行く人々の汗と脂の匂い。なにかはわからないけれど、鼻腔の奥に触る、柔らかくも確かに突くような生々しい匂い。

 旅人はこの国を思い出すとき、そんな匂いもともに蘇る。

 そして忘れてはならないのが、道を行く動物たちの糞尿の匂いだ。

 インドでは近代的な主要な道路でも、牛様が歩いている。ヒンドゥー教では神聖なものとされている牛様は(あまり神聖な存在として扱われているようには見えないが)、あらゆる場所を闊歩している。もちろん糞尿は垂れ流しだ。あるがままである。だから、この国を覆う主なくささは、その類に起因するだろうとはすぐに予想がつく。それにさらに様々なものが混ざり合って、ひとことではいえない「匂い」を作っているのだ。

 ぼくはこの国で、数え切れないほど牛様の糞を踏んだ。履いていった唯一のサンダルの溝にはまだそれが残っていることだろう。ぼくはあえてそれを取り除こうとはしない。なぜなら、バラナシで出会った青年がこんなことを教えてくれたからだ。

「牛の糞を踏んだ者には、しあわせが訪れる」

 インドでは昔からそう言い伝えられているのだそうだ。

 はじめはやはり嫌だった。日本でも犬の糞を踏むということは忌み嫌われているし、ぼく自身も踏む度にきれいに洗ってはいた。しかしそう教わってからは、なぜか気持ちの面で変化が起こったことに気づいたのだ。

 別に、しあわせになれる、やった! という単純な思考ではないけれど、初めて訪れた憧れの国で言い伝えられている伝承を、自分が体験していることに静かな興奮を覚えていたのかもしれない。大げさだが、自分がこの国の一部になれたような気持ちがしたと、今になってみて思う。

 牛様の糞がかすかに残るぼくのサンダルは、この日本の珠洲の土を踏み、珠洲の土に一体になる。その土は巡り巡って、あるいはなにかの野菜を育てるかもしれない。その野菜は日本の誰かの口に入るかもしれない。逆に辿ると、つまり時系列を遡ると、牛様の糞を作ったインドの食物があるだろう。それがなんなのかはわからないが、それはかたちを変えてぼくの家の畑のキャベツになったとも考えられる。

 インドでは、火葬した遺灰をガンジス川に流すという。神聖なるガンガーに流れた遺灰は、他の見知らぬ人の遺灰と混ざり、あるいは泳ぐ魚の口に入り、あるいは沐浴する牛様の口に入り、あるいは散り散りになってベンガル湾に注ぎ、そこで遊泳する子供たちの肌に触れるかもしれない。

 インドという国が、いや世界がそうして成り立っている以上、この国の「くささ」を見ずに避けて通すのは、この国そのものを見ていないのと同じである。

 匂いはこの国の深いところとつながっている。