ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

東北旅ショートエッセイ「5日目:青森の悲しさとかわいさと」

 

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 青森の人たちはみな、うら悲しい目をしている。

 かっこつけて文学的な表現をしたいわけではなく、実際そう見えるのだからしかたがない。旅人らしく彼らに話を振ってみても、みな申し訳なさそうに一言なにかを返すだけで、話は長く続かない。たぶん迷惑しているわけではないと思うが、はにかんだ笑顔とそのときの目尻の皺がぼくの印象に残っていいる。

 ぼくはそのとき、「ああ、やっぱりここはチベットに似ている」と思う。彼らもとても温厚で、決して人嫌いではないのだが、どこか申し訳なさそうな顔ではにかむ。素朴で寡黙だが温かい人間味を感じさせるところがある。

 実は、チベットに似ているというのは一昨日に初めて青森に入ったときに思ったことだ。それは単純に風景というか気候、空気の感じが似ていると思ったのだ。晴れてはいても地面の空気は冷たく、風が吹くと寒い。しかし乾燥していて過ごしやすく、澄んだ空気が気持ちいい。ぼくはなん度もインドのチベットで嗅いだのと同じ匂いを感じた。

 そして、青森滞在3日目にして、人もそうだと感じている。それは恐山に参って決定的なものになった。仏教という匂いも関係しているのかもしれない。山だからかもしれない。北だからかもしれない。とにかくぼくは、チベットの人たちに感じた好感ともいえる感情を、青森の人たちにも感じている。少なくともそれは親しみに近いものだと思う。

 青森のチベットらしさばかり書いてしまった。「津軽海峡冬景色」の世界になりそうだ。ぼくが思うのはそれだけではない。

 青森の子たち(ここでは特に10代〜20代の若い子たち)は、かわいい。

 もちろん、顔がかわいい女の子が多いというわけでもない。いや正確にはそれも含むが、「かわいい」という言葉はなにも、数値化できる物理的な顔のパーツの配置とか美的価値に限ったことでもないだろう。言葉でも数字でも表せないような、かわいいとしかいいようのないような雰囲気を人間は持つということに反論する人はいないと思う。少なくとも青森の子たちはそうなのだ。

 昨日・今日と土日だったので、電車の中や街中で若い子たちをよく見かけた(ぼくが31歳なのは置いといて、客観的に若いといわれる世代だ)。今日出会った若い子にはこんなのがいた。

 ぼくは下北の駅のベンチで電車を待っていた。それは5人がけくらいの長いベンチで、ぼくが左端に、地元の部活帰りの女子高生が右端に座っていた。すると彼女と同じ部活と思しき男子高生がやってきて、ぼくと彼女の間に座った。各人1人分のスペースを空けて座っているかたちだ。男子高生は座っただけだったのだが、座ってから3分後くらいに、隣の女子高生に「お疲れ様です」と声をかけた。女子高生は「お疲れ様です」と、こともなく返した。無言の3分間はなんだのか、なぜこのタイミングだったのかはわからず、さらにその後の会話はなく、またお互い無言に戻った。さらにその5分後くらい、男子高生がお菓子かなにかを取り出して食べ始めようとした。彼はふとそこで止まり、隣の女子高生に「食べる?」と聞いた。女子高生は「ありがと」と言い、お菓子を受け取る。そしてまた無言に戻った。お互い冷たいわけでもなく、ただなんの疑いもなく、齟齬もストレスもなく、そのやりとりがあった。

 その後も2人は無言のまま、別々に電車に乗っていったのだが、なぜかこの出来事がぼくには印象に残っている。

 これが代表例かどうかは置いといて、ぼくは、青森の子たちは本当にかわいいと思う。純朴で、汚れがなく、少しの恥じらいを持ち、また少しの謙虚さを持ちながら、ただあるがまま、生まれた町で生きている。妙な背伸びをしないから、疲れない。その人らしくいられる。だから若々しいし、輝いて見える。ぼくが「かわいい」といったのはそのことだ。どの子を見ても、「ああ、かわいいな」と素直に思う。

 青森の人たちはうら悲しい目をしている、と冒頭で書いた。それはなにも疲れているからではないとぼくは思う。たぶん、謙虚で控えめで自分を押し殺すがゆえの、内に秘めた昇華しようのない感情がそうさせているのだ。それがあるから、かわいいと思えるのだと、自分なりに分析してみた。彼ら彼女らには、ずっとそのままでいてほしいと、ぼくは強く願う。