ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

東北からのアイム・ホーム

 

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(カッパのは話の続きはちゃんと書いています。まとまったら、また後日こちらに載せます。家に帰ったのにそのままカッパの話を続けるのもあれだったので、帰宅してのことを簡単に。)

 

 家に帰るまでが遠足だとよくいう。

 以前、旅の準備が好きだ、あれこれと計画を立ててスケジュール表を作るのが好きだと書いが、僕は旅から帰るという時間も好きだ。

 別に帰るのが待ち遠しいというわけでもないが、旅という非日常を楽しみ、かつての日常へと帰ってゆく時間は、どこか憂愁が漂い、別の意味でのさすらいのような気がする。一つの場所からまた別の一つの場所へと移るのだから、それは旅の一つといってもいいだろう。感覚的にはさみしけれど、それもまた悪くないと思う。終わることの名残惜しさよりも、終わることを実感している自分がいることが愛おしくなる。別にナルシシズムでいっているわけでもないが。

 以前、というのは僕が一人暮らしを始めた18歳のころの話だが、そのころに初めて一人暮らしを始めて、その年のゴールデンウィークに帰省したときのことを思い出す。3月末に引越しをしたので、それから1ヶ月ほど経ったときのことだ。僕は特急バスで最寄りのバス停に着いて、家族に車で迎えに来てもらって、その後部座席の車窓から約1ヶ月ぶりの故郷を眺めていた。いや、1ヶ月ほどしか経っていないのだから、それに故郷という字を当てるのはどうかと思うが、僕はその故郷をものすごく懐かしい目で見ていた。それはかつてないような感覚だった。不思議と涙がこぼれそうになるような、安心感と高揚感と不安感が入り混じった、いいようのない感覚だったのを今でも覚えている。たった1ヶ月ぶりなのに、僕はなんだか不思議な気持ちになった。帰った我が家もやたらと広く感じるし、家族の顔もどこか新鮮だった。

 しかし、その7ヶ月後の年末の帰省のときはそれほどでもなかった。もちろんそれなりの「それ」はあるのだが、ゴールデンウィークに感じたようないいようのない不思議な気持ち薄れていた。そして、帰省の回を重ねるごとに、当たり前のように「それ」は薄れていった。

 ああ、人は「懐かしさ」という感覚にも慣れるのだな、と今になると思う。

 今僕は2週間ぶりに我が家に帰った。懐かしいというよりは、「当たり前」の日常感覚に戻ってきたようで、今は目の前の自分の部屋の壁と、貼られたカレンダーや山積みにされた本なんかが見えるだけだ。「帰ってきた」という感覚すら薄い。まるで帰ることがあらかじめ決められていたことで、それを実行したまでだ、とでもいうようだ。

 いや、帰る日まで決まっている旅なので、それはそのとおりなのだが、旅をしているときは「帰る」ということを頭に置いているわけもなく、ただ異国に身を置いていることを味わっているだけなわけで、まさか自分が「帰る」なんて思ってもいないのだ。自分が永遠に漂泊を続けるかのように錯覚している。錯覚している自覚もない。それでも当たり前のように「帰る」わけだから、考えてみれば不思議なような気もする。

 

 今はまだ、旅をしていたときのことを、はっきりとしたかたちでは味あわずに、ぼんやりとした記憶のまま、頭の中で熟成したい。そんな気持ちなので、こういったかたちで筆を置きたいと思う。