ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

縦書き横書きのナゼ

 
 書道をやっていて、いや、やる前から、なぜ漢字は縦書きで、他の文字文化は横書きなのか、それをちゃんと説明を受けてことがないことを思うことがある。
 もしかしたら、専門家が歴史的・文化的にきちんと説明したものがあるのかもしれないが、ぼくはあまりよく知らない。勉強不足かもしれないが。
 そんなことを考えながら、こないだちょっとわかった気がした。
 
 漢字書道の世界にも横書きの作品はあるにはあるが、それは格言のようなもの、せいぜい4字〜6字ほどを右から左に書いたもので、正確には一文字ずつを縦書きにしていることになっている。そしてあくまでそれは、熟語を単体で書いているだけで、文章にはなっていない。文章的なものを横書き(右から左)に書いた作品を見たことはない。ましてや、左から右への横書き作品は本当に見たことがない。誰も作らない。
 横書き数字(右から左)の書作品は、もちろんれっきとしたひとつのスタイルで、それ相当の技術と経験と創作センスがいる。でも縦書き何十文字の大きな書作品に比べると、そこに風景的面白さはなく、一つの彫刻のような楽しみ方をするものだと思う。それで空間が締まるような。

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我が家にあった誰かの作品
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恥ずかしいけど、ぼくの練習した大きい作品

 つまりなにをいいたいかというと、ぼくが普段からやっている縦書き数十字の書作品の面白さとは、全体的な風景の面白さだということで、先生にもそういう風に教わっている(勘違いだったらごめんなさい)。
 でもそれはなぜ縦書きなのか、横書きの作品がないのはなぜなのか、ということは教わっていない。今更説明するまでもないのかもしれない。
 そこで思いついた仮説は、漢字そのものは横方向の振れ幅(ダイナミックレンジ)が豊かなことに起因するのではないかということだ。
 例えば、「木」「林」「森」という漢字を比較したとき、縦に並べるとその違いがよくわかると思う。

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縦に書くと振れ幅があるが、横に書くとあまり振れ幅がない

 この3字に限らず、漢字の持っている横幅は、ただ書いただけでも様々だと思う。
 対して、同じ文字を横書きにしたところで、上下方向、つまり文字の進む方に対して直角方向の振れ幅があまり豊かとはいえないだろう。
 また、西洋にもカリグラフィという文化がある。東アジアの書道文化のようなものとは少し違うかもしれないが、文字を使った芸術であることに変わりはない。イスラームの世界のカリグラフィも面白い。でもこれは縦書きにすることはない(と思う)。なぜか。
 これに答えるとしたら、上に書いたような仮説が当てはまる。つまり、横書きにしたときに縦方向の振れ幅が豊かだということだ。

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アルファベットの並び
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イスラームの文字。ネットで拾ったやつなので詳細はよくわからない。

 このように、アルファベットなどの非漢字の文字は、横幅がほとんど変わらないくて、縦方向に幅が広い。
 いってしまえば、漢字は縦書きに書いたときが美しく、アルファベットなどは横書きに書いたときが美しい。
 書きやすさ書きにくさや、他にいろんな理由があるかもしれないが、最後はこういう、人間の持つ美的感覚で決まっているのではないかと、ぼくなんかは思ってしまう。
 話を元に戻すと、漢字数十字の大きな書作品を作るときには、横方向の振れ幅の豊かさを主に、墨の濃淡・潤渇はもちろん、線の太い細い、速い遅い、軸に沿う外れる……いってしまえば空間的な白と黒の対比や豊かさに気をつけるようにしている。そういう作品の持つ風景が、いい作品として観る人の心を打つ。
 そういう美的感覚が、最後に文字組の方向のルールを決めいてるのではないかと。(写真の縦構図か横構図かというところも、こういう話かもしれない。)
 実用的な便利さなどもそうだが、そんな風に味気ない理由で生活の決まりごとが決まっていると思うのは、さみしい。
 多分、文字組方向に限らず、他のいろいろな決まりごとの背景には、人間らしい美的感覚があると思うし、そうあってほしいと思っている。