ホーム・アンド・ジャーニー

ふるさとの珠洲(すず)と、そこから出てそこへと帰る旅にまつわるあれこれ。

旅に出れないから書けない

 
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 新型コロナだ。
 そのせいで旅に出られないから嫌だ、なんて不平をいうのは不謹慎なのはわかっているけど、そう思っている人は少なくないはずだ。
 しかし、ぼくの場合は少し話が違う。
 旅行記が書けないのだ。その鬱憤が溜まっているのだ。
 じゃあ小説でもなんでも書いていればいいじゃないかという声も聞こえるが、それはした。
 実は、4月から半年ほどかけて、550枚の長編小説を書いていたのだ。
 しかし、書き上げてみて、なんだか無聊な気持ちになった。これはほんとうに自分が書きたかった、書くべきものだったのか。それは最後まで読んでいただければ、それなりに感動してもらえるという自信はあるけど(?)、なんだか、それは自分がほんとうに書くべきものだったのかという疑問にぶち当たった。
 自分が書くべきもの。それは小説なのだろうか?
 仮に小説らしきものは書けたとして、果たしてそれを書くことを「自分が」求めているのかが疑問なのだ。
 そのことをこの秋冬で考えたいなと思っている。
 それで思い浮かんだのが、この記事のタイトル。
 旅に出て、それを書きたい。
 ぼくにとって、いつのまにか「書くこと」と「旅に出ること」は、粘っこい粘液みたいなものでぐちゃぐちゃに混ざり合っていて、どっちがどっちなのか見分けがつかない。
 550枚の小説を書くことでも癒されなかったこの鬱憤は、そこに旅がないからだ。
 旅は病だが、それとぐちゃぐちゃになっている「書くこと」も病なのだろう。
 確かに小説を書くことは楽しかった。またしたい。ゼロから物語を生み出す作業はクセになる。自分になにかが憑依したようで、自分が書いているのか、書かされているのか、わからなくなってきて、それはいいようのない愉しさだった。
 でも、そこにはリアルな「空間の移動」がない。空想は現実を超えるというが、ぼくにとっては、現実の空間の移動のほうが空想よりもはるかに自由で楽しい。
 ぼくが求めているものといったら、多分それだ。空間の移動だ。
 実はその計画をあたためているところなのだが、コロナのことで、まだよくわからない。
 そんな手持ち無沙汰な感じがもやもやとして、ブログを書いた次第だ。ではまた。